2012年09月30日「希望の源泉」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ペトロの手紙一、1章3~9節

説教要旨:
今日の聖書の箇所3節には「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」とあります。
いわゆる新生のことがいわれています。具体的には洗礼のときに起こることです。
洗礼において聖霊が注がれ、キリストの十字架と復活の命によって私たちは新たに生まれるのです。
言い換えれば、私たちは十字架に古い自分をつけて、死に、そしてキリストの復活の命を生きるものとされるのです。それは永遠の命へとつながる命であります。
キリストの復活の命を生きるものは、「天に蓄えられている財産を受け継ぐ者」(4節)とされていると言われています。
この地ではなく、天にであります。その財産とは神の永遠の御国であり、永遠の命です。
それは朽ちず、汚れず、しぼまないものであります。この地の財産はいつか朽ち、汚れ、しぼんでしまうものであります。
そんなものに私たちは希望を置くことはできません。
私たち人間の希望は失望に終わることが多いものです。しかし神の希望はそうではありません。
神が希望されておられるなら、それは必ず成就します。神は私たちが永遠の命と御国を授かることを望まれておられます。また約束されておられます。だから私たちは儚い希望ではなく、確かな希望を抱くことができるのです。
さらにキリストが与える希望は試練にあって力を発揮します。私たちは人生において数々の試練に遭わねばなりません。
そこで悩みます。しかしその悩みは信仰にとって重要なものです。それは私たちの信仰を深め、強める過程における重要な要素となるからであります。そして試練を耐え忍んだ暁にはヤコブの手紙で言われているように「試練を耐え忍ぶ人は幸いである。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただく」(1章12節)のであります。
私たちは試練に遭うとき、一人で悩み、耐え忍ぶのではありません。イエス・キリストが共に悩み、試練を耐え忍んでくださるのです。
私たちはキリストに支えられて、試練に打ち勝つことができるのです。そして御国へと確かに導かれるのです。
キリストなしには私たちは試練に脆く、弱い者であります。キリストは目には見えませんが、確かに聖霊において私たちの内にお住まいになっておられます。内におられるキリストを実感すると、喜びが溢れます。
試練に打ち勝つ希望が湧いてくるのです。

2012年09月23日「キリストの平安」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書14章15~31節

説教要旨:

今日の聖書の箇所27節で主イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言われています。
世が与える平和は、必ずしも本当の平和であるとは限りません。特に旧約聖書の時代における偽預言者は、国の危機の中にあっても、平和を説きました。本当の預言者は、危機の中にあって、民に悔い改めを迫り、神への立ち帰りを説かねばなりません。しかし偽預言者は、そうはせず、民が聞き入れやすい安易な平和を説いたのです。
結果は国の滅亡でありました。そのように世が与える平和というものは、うその平和が多いのです。
私たちは本当の平和の言葉を神から聞かねばなりません。
ではどのようにして聞くのでしょうか。それは聖霊を通してであります。
今日の箇所で、主イエスは、復活後父のもとへ昇天したあとに聖霊を送ることを約束されました。
それは私たちをみなしごとしないためでありました。私たちはこの地上にあって、イエス・キリストを聖霊において知ることができるのです。またキリストの御心を知ることができるのです。今どのような状態にあるかを知ることができ、その状態を変えるべきであるなら、キリストが働いてくださり、変える力を私たちに与えてくださるのです。
さらにキリストが聖霊において内住することで私たちは平和を与えられます。
キリストなしには真の平和は訪れません。なぜなら私たちと神との関係が和解されねばならないからです。
私たちは罪を犯すことにおいて、神とは正しい関係に立っていません。いつも罪が介在して神との和解を妨げているのです。私たちが神と和解するには、罪が贖われる必要があります。私たちに真の平和がないのは私たちの造り主である神との和解がなされていないところにあります。
キリストはその和解のわざを十字架において果たされました。十字架によって私たちの罪がすべて贖われ、私たちは神との和解ができるのです。この神との和解のわざは他の誰も果たすことはできません。神の御子イエス・キリストだけがおできになるのです。その十字架の主イエス・キリストが私たちの内に聖霊において臨在することで、私たちは真の平和を得ることができるのです。

2012年09月16日「誰に対しても」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィレモンへの手紙8~22節

説教要旨:
パウロは奴隷のオネシモを回心へと導きました。そこには福音の力が働いていますが、パウロの姿勢も関係しています。パウロは奴隷オネシモに対してまことにすごいことを言っています。「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(10節)、「わたしの心であるオネシモ」(12節)、「奴隷以上の者、つまり愛する兄弟」(16節)、さらには「オネシモをわたしと思って」(17節)など、当時の社会にあって奴隷に対して言えるような言葉ではないのです。
それをパウロは言っているということは、パウロは自分をオネシモよりも低いところに置いたから言えたことであります。決して上から目線で福音をパウロは説いているのではないのです。
パウロは自身を「罪人の頭」と表現しています。頭はふつうは一番高いところに位置する者に与えられるものですが、逆にパウロにおいては、罪人の頭ですから、最も低いところに自分を位置づけているのが分かります。そのように自分を位置づけなければならない理由がパウロにはあります。それはパウロの過去です。回心前のパウロは、徹底的に激しく教会を迫害しました。それが回心後キリストの福音を宣べ伝えるものになった。そうであるから、宣べ伝える相手には、徹底的に低くならざるを得なかったのです。それはたとえ奴隷であってもです。
奴隷は社会の最底辺に置かれたものです。それよりももっと低い位置にパウロは置いたのです。
そのことで福音に心を閉ざしていたオネシモが心を開き、福音を受け入れるものとなったのです。
ここで私たちはパウロよりも低いところにいる御方に目をとめたい。この御方がなければ、パウロは救われなかったのです。その御方はイエス・キリストです。
キリストはパウロ以上に誰に対しても低いところに立たれた御方です。
その御方の低み(十字架)によって、私たちは救われ、高められるのです。社会の底辺に位置するオネシモもキリストによって高められるのです。キリストによって高められることから漏れる人は誰もいません。
どんな罪人もキリストによって高められるのです。

2012年09月09日「謙遜と自慢」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二、3章1~11節

説教要旨:
1節で「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか」とパウロは言います。
何の自己推薦をし始めているのでしょうか。それは使徒性であります。
パウロは自分は使徒であるとの意識をもっており、その資格もあると確信していました。
エルサレム教会の推薦状などなくても、その資格はあると主張しているのです。
コリントの教会の人たちは、パウロの使徒性に疑いをもっていました。
エルサレム教会のお墨付きが必要であるとの考えでした。
しかしパウロは、使徒としての資格は人間的な権威によって与えられるものではなく、神から与えられるものであるとパウロは言っているのです。パウロは決してこの世的な意味で自己推薦しているのではないことをコリントの教会の人たちに知ってもらいたいゆえに手紙を書いているのです。
パウロは2節で「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」と言っております。
これは、パウロの使徒としての資格が神から与えられているのだという証拠がコリント教会の人たちの信仰において示されているはずであるという意味です。
しかし現実には、コリント教会の人たちの信仰は、パウロが当初宣べ伝えたキリストの福音から離れているような面が多々あったのです。だから早く悔い改め、福音に立ち帰るようにという熱い思いがパウロの言葉にはあるのです。福音に立ち帰るなら、パウロの使徒性は疑いのないものであることがはっきりするとの思いがあるのです。
パウロの使徒としての資格は神から来るから、パウロはこの世的な自慢から離れて謙遜にならざるをえないのですが、又一方では、神から来るからこそ、どんな人間が与える資格よりも、大胆に誇りをもってその資格を行使すべきであるとパウロは考えていました。事実パウロは考えるだけでなく、行使しました。なぜなら神から与えられる資格ゆえに、その資格を行使しないことは神に対して罪を犯すことになるからです。神から与えられる資格に謙遜でありつつ、他方大胆に誇りをもって行使することを私たちはパウロから学びたい。

2012年09月02日「ただ神の恵みによる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章1~11節

説教要旨:
今日の箇所には、キリスト者の歩むプロセスが書かれています。
私たちはキリストを救い主として信じる前は、1~3節にあるような者でありました。
すなわち神に背き、自我の赴くままの生活でありました。
それは神の怒りを受けるに価するものでありました。
神の怒りの前に滅ぶべき者であったのです。
それがキリストの十字架によって、救われたのです。
ただ神の恵みであります。神の憐れみと愛ゆえであります。
神の愛を受けるに価しない者が神の愛を受けるということはキリストの十字架ゆえであります。十字架の代価なくしてはありえないことであったのです。
私たちは十字架の死によって、罪赦されるだけでなく、新たな命をいただくようになります。
かつての古い自分は十字架で死に、新たな命を受けて、生きる者となります。
これもただただ神の恵みであります。私たちが造り出せる命ではありあません。
新たな命を受けた私たちは、次にキリストに似た者へと作り変えられる道を歩みます。
これも自分で造り変えるのではなく、キリストが聖霊において私たちのうちに住まわれることで起こってくることであるのです。
またキリストが内に住まわれることで、良い行い、良い業が生まれます。良い業は人間が作り出すというのではなく、聖霊において内に住まうキリストによるものです。
私たち人間が良い業であるという場合、その良い業は人によって違う場合があります。
ある人にとって良い業であっても、他の人にとっては悪い業であることがあります。
しかし神においては良い業は一つです。
このように見てくると、すべては神の恵みによっていることが分かります。
神の恵みによるのですから、私たちは他者に向かって誇ることはできないのです。
誇るなら、主を誇れということです。