聖書箇所:イザヤ書66章7~14節
説教要旨:
今日の箇所では、主の慰めが母性的イメージで表現されています。
人間の慰めの中には、社交儀礼的な慰めもあります。しかし母親の子に対する慰めは、真実なものではないでしょうか。その母と子の関係の比喩で言われる主の慰めもまた
真実なものであります。私たちは勢いのあるとき、順風満帆のときは、慰めなど必要としません。
むしろもっと奮い立つようなことを言ってくれる人を待ちます。
しかしそうでないとき、つまり苦難と試練の中にあるとき、悲しみと嘆きの中にあるときは、心から真実に慰めてくれる人を求めます。信仰者にとって、その人は神であります。
旧約聖書の神は、何か怖い、厳ついイメージを持ちがちですが、決してそれだけではなく、母性的な面ももっているのです。
このような母性的神のイメージはやはりバビロン捕囚期から始まるものであろうと思われます。
国は滅亡し、捕囚の民として異国の地バビロンで、逆境の中で生活しているユダヤの民にとって、母性的神が求められたのも、無理からぬところであります。
預言者イザヤを通して神は母性的イメージで民に対して慰めを語られたのであります。
私たちも苦難と試練の中にあるとき、すべてを包含するような優しい母親のような神に向かい、そして抱かれ、慰められることが必要です。なぜなら主の慰めは真実であるからです。
母親を超えるほどの慰めでもって、主は私たちを抱いてくれます。
2011年01月09日「昨日、今日、明日」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章4~8節、22章16~21節
説教要旨:
ヨハネ黙示録1章4節、8節には「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と言い表されています。
その御方はイエス・キリストであります。やがて来られる方はかつておられた方であり、今おられる方です。
このように言われますと、不思議な感じがします。
かつて来られた方が、今おられるなら、どうしてやがて来られることなどあるのでしょうか。
すでに今来ているなら、どうして「主イエスよ、来てください」と願う必要などあるのでしょうか。
主イエスはすでに2000年前クリスマスにおいて来られています。それは旧約聖書に預言された通りでありました。主イエスは旧約で預言されたとおり、そのメシアとしての使命を果たし、父のもとへ昇られました。
今は目に見える形においては、この地上におられません。ではなぜ「今おられ」と言うのでしょうか。
それは、主イエスが自分の代わりに聖霊を私たちのところに遣わすことを約束されたからです(ヨハネ福音書14章16節)。聖霊において主イエスは私たちと共にいるのです。聖霊は確かに目には見えません。
でも聖霊は、風と同じように目には見えないけれでも感じることはできるはずです。
私たちが聖霊を信じるなら、主イエスが今共にいることを実感できるのです。
ですから聖霊において今おられというのが本当のところであります。
ではそのまま目に見えない形のままでずっとおられるのでしょうか。そうではありません。
主が再び私たちのところに来られるとき、目に見える形においてやって来られます。
そのときは、終末のときです。神の永遠の御国が成就するときです。
一切の苦難は終わりを告げるときです。
黙示録が書かれた当時、クリスチャンは激しい迫害の中にありました。ゆえに一刻も早く迫害の終わるときを待望せざるをえませんでした。主が再び来られるとき、それは迫害が終わるときです。永遠の命が実質的に与えられるときであります。そのときを願いつつ、今聖霊において共におられる主イエスに支えられ、慰められ、励まされ、勇気づけられて迫害の中生きていたのです。私たちも原始キリスト教会のキリスト者たちと同じ信仰をもって、この世の苦難に立ち向かっていきたい。
説教要旨:
ヨハネ黙示録1章4節、8節には「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と言い表されています。
その御方はイエス・キリストであります。やがて来られる方はかつておられた方であり、今おられる方です。
このように言われますと、不思議な感じがします。
かつて来られた方が、今おられるなら、どうしてやがて来られることなどあるのでしょうか。
すでに今来ているなら、どうして「主イエスよ、来てください」と願う必要などあるのでしょうか。
主イエスはすでに2000年前クリスマスにおいて来られています。それは旧約聖書に預言された通りでありました。主イエスは旧約で預言されたとおり、そのメシアとしての使命を果たし、父のもとへ昇られました。
今は目に見える形においては、この地上におられません。ではなぜ「今おられ」と言うのでしょうか。
それは、主イエスが自分の代わりに聖霊を私たちのところに遣わすことを約束されたからです(ヨハネ福音書14章16節)。聖霊において主イエスは私たちと共にいるのです。聖霊は確かに目には見えません。
でも聖霊は、風と同じように目には見えないけれでも感じることはできるはずです。
私たちが聖霊を信じるなら、主イエスが今共にいることを実感できるのです。
ですから聖霊において今おられというのが本当のところであります。
ではそのまま目に見えない形のままでずっとおられるのでしょうか。そうではありません。
主が再び私たちのところに来られるとき、目に見える形においてやって来られます。
そのときは、終末のときです。神の永遠の御国が成就するときです。
一切の苦難は終わりを告げるときです。
黙示録が書かれた当時、クリスチャンは激しい迫害の中にありました。ゆえに一刻も早く迫害の終わるときを待望せざるをえませんでした。主が再び来られるとき、それは迫害が終わるときです。永遠の命が実質的に与えられるときであります。そのときを願いつつ、今聖霊において共におられる主イエスに支えられ、慰められ、励まされ、勇気づけられて迫害の中生きていたのです。私たちも原始キリスト教会のキリスト者たちと同じ信仰をもって、この世の苦難に立ち向かっていきたい。
時刻:
22:31
2011年01月02日「キリストと共に歩む」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書21章20~23節
説教要旨:
今日の箇所で、主イエスは弟子のペトロを再び召すのですが、ある一人の弟子のことが気になっています。それは20節にあるとおり、「イエスの愛していた弟子」でありました。
ペトロは自分が一番弟子であり、主が最も愛しているのではないかと思っていたので、気になる存在であったことでしょう。そして彼の今後について主イエスに尋ねるのです。
「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と。すると主は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい」と言われたのです。この主の言葉を弟子たちは誤解して、彼は死なないと思ったのです。
ペトロも当然もしできるなら、自分も死なないようにしてほしいと思ったことでしょう。
私たちもそう思うかもしれません。しかし主イエスは、彼は死なないという意味で言ったのではなく、ただわたしに従いなさいということを言われたのです。すなわち言い換えれば、あなたにはあなたの道がある。
その道がたとえ長く生きる道でなくても、主が召す道としてあるなら、その道を行きなさい。
人には主が示すそれぞれの道があるではないか。あの人はどうの、この人はどうのという前に、まず主が召す道があなたにあるではないか、その道を主と共に歩みなさいと言われたのです。私たちにも、それぞれ主が召す道があります。その道をただひたすら主とともに歩む一年でありたい。
説教要旨:
今日の箇所で、主イエスは弟子のペトロを再び召すのですが、ある一人の弟子のことが気になっています。それは20節にあるとおり、「イエスの愛していた弟子」でありました。
ペトロは自分が一番弟子であり、主が最も愛しているのではないかと思っていたので、気になる存在であったことでしょう。そして彼の今後について主イエスに尋ねるのです。
「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と。すると主は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい」と言われたのです。この主の言葉を弟子たちは誤解して、彼は死なないと思ったのです。
ペトロも当然もしできるなら、自分も死なないようにしてほしいと思ったことでしょう。
私たちもそう思うかもしれません。しかし主イエスは、彼は死なないという意味で言ったのではなく、ただわたしに従いなさいということを言われたのです。すなわち言い換えれば、あなたにはあなたの道がある。
その道がたとえ長く生きる道でなくても、主が召す道としてあるなら、その道を行きなさい。
人には主が示すそれぞれの道があるではないか。あの人はどうの、この人はどうのという前に、まず主が召す道があなたにあるではないか、その道を主と共に歩みなさいと言われたのです。私たちにも、それぞれ主が召す道があります。その道をただひたすら主とともに歩む一年でありたい。
時刻:
11:19
2010年12月26日「神に賭ける人生」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ルカによる福音書2章15~20節
説教要旨:
御子イエス・キリストをこの世に遣わすということは神にとって大きな賭けといって、いいほどのことでありました。なぜなら御子イエスの道は十字架に通じるものであったからです。十字架において私たちの罪を贖い、救うという神の意図が本当に私たちに受け入れられるのかどうか分からないからであります。
十字架によって私たちが罪を悔い改め、神へと立ち帰るかどうか分からないことで、あったからです。でもあえて神は御子をこの世に遣わし、十字架へと御子を渡したのです。
結果は世界中で多くの人が十字架での贖罪を受け入れ、救いにあずかることができました。
私たちは、この神の賭けに応答する形で、私たちの人生を神に賭けることが必要であります。
でもその賭けはこの世の賭けとは違い、100パーセント当たる賭けであります。
それも無償で当たるものであります。決して無駄な賭けではありません。当たる確立が低い賭けではありません。神はいい加減な思いで、御子を私たちのところへ贈ってくださったのではありません。
独り子イエス・キリストを十字架に渡すほどに私たちを真剣に愛しているのです。
私たちは、御子が歩まれた道を御子と共に歩む人生に賭けていきたい。その人生のゴールは永遠の御国であり、永遠の命であることを覚えたい。そしてそれは決して外れることのない賭けであることも覚えたい。神の約束は、必ず成就することを信じて。羊飼いたちはその道を歩み始めているのです。
説教要旨:
御子イエス・キリストをこの世に遣わすということは神にとって大きな賭けといって、いいほどのことでありました。なぜなら御子イエスの道は十字架に通じるものであったからです。十字架において私たちの罪を贖い、救うという神の意図が本当に私たちに受け入れられるのかどうか分からないからであります。
十字架によって私たちが罪を悔い改め、神へと立ち帰るかどうか分からないことで、あったからです。でもあえて神は御子をこの世に遣わし、十字架へと御子を渡したのです。
結果は世界中で多くの人が十字架での贖罪を受け入れ、救いにあずかることができました。
私たちは、この神の賭けに応答する形で、私たちの人生を神に賭けることが必要であります。
でもその賭けはこの世の賭けとは違い、100パーセント当たる賭けであります。
それも無償で当たるものであります。決して無駄な賭けではありません。当たる確立が低い賭けではありません。神はいい加減な思いで、御子を私たちのところへ贈ってくださったのではありません。
独り子イエス・キリストを十字架に渡すほどに私たちを真剣に愛しているのです。
私たちは、御子が歩まれた道を御子と共に歩む人生に賭けていきたい。その人生のゴールは永遠の御国であり、永遠の命であることを覚えたい。そしてそれは決して外れることのない賭けであることも覚えたい。神の約束は、必ず成就することを信じて。羊飼いたちはその道を歩み始めているのです。
時刻:
22:17
2010年12月19日「飼い葉桶の中に」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ルカによる福音書2章8~14節
説教要旨:
神の御子イエス・キリストは、生まれたとき、飼い葉桶の中に寝かされていました。
ここにクリスマスの秘儀があります。メシア(救い主)は、飼い葉桶の中にまで私たちとともにおられることが、神の御心でありました。それがクリスマスの出来事です。
私たちは、神のごとくならんと、神へと上昇しようといたします。でもそれは無駄な企てあります。
そのような者を打ち砕くのが神の御心であります。神の御心は飼い葉桶にまでへりくだることであります。飼い葉桶という神のへりくだりに神の栄光があるのです。
そしてその神のへりくだりと共に生きようとする人々に平和あれということがクリスマスのメッセージであります。
この世界には、権力者はじめ、多くの人の驕り高ぶりが満ち満ちています。平和は驕り高ぶり、傲慢な心からはやってきません。飼い葉桶の中の御子イエス・キリストの姿に平和の秘儀は潜んでいるのです。
私たちは飼い葉桶のメシア=イエス・キリストに合わせられて、へりくだって主が歩まれた道を共に歩んでいこうではありませんか。
説教要旨:
神の御子イエス・キリストは、生まれたとき、飼い葉桶の中に寝かされていました。
ここにクリスマスの秘儀があります。メシア(救い主)は、飼い葉桶の中にまで私たちとともにおられることが、神の御心でありました。それがクリスマスの出来事です。
私たちは、神のごとくならんと、神へと上昇しようといたします。でもそれは無駄な企てあります。
そのような者を打ち砕くのが神の御心であります。神の御心は飼い葉桶にまでへりくだることであります。飼い葉桶という神のへりくだりに神の栄光があるのです。
そしてその神のへりくだりと共に生きようとする人々に平和あれということがクリスマスのメッセージであります。
この世界には、権力者はじめ、多くの人の驕り高ぶりが満ち満ちています。平和は驕り高ぶり、傲慢な心からはやってきません。飼い葉桶の中の御子イエス・キリストの姿に平和の秘儀は潜んでいるのです。
私たちは飼い葉桶のメシア=イエス・キリストに合わせられて、へりくだって主が歩まれた道を共に歩んでいこうではありませんか。
時刻:
21:43
2010年12月12日「恵みのとき」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ルカによる福音書1章26節~38節
説教要旨:
今日の箇所はいわゆる「受胎告知」と呼ばれている箇所であります。
天使からメシア=救い主を宿すといわれて、マリアは当惑します。当惑すると同時、苦悩が始まります。まだヨセフとは婚約中の身でありながら、子を宿すということは、ヨセフの子ではないとの疑いをヨセフに抱かせるに十分なものでありました。
マリアに対する不信の心をヨセフに芽生えさせていくことになる事柄であります。
また世間からも白い目で見られることの覚悟を必要としました。さらには最悪の場合、姦淫の罪で石打ちの刑に処せられることも覚悟することでありました。
ですから当初はとても喜ばしいことだとは思えなかったのです。
むしろ今後のことを考えたら相当の苦難を覚悟する必要さえあったのです。
でも最終的に天使のお告げを神の御心として受け入れていったのであります。
当初はとても神の恵みとして受け入れることができないマリアでありましたが、メシアを宿すことが神の御心であると納得し、受け入れていったのです。
私たちも当初恵みであるとは分からずに、いやむしろこんなの恵みではないと思い、神につらく当たることがありますが、それがたとえ苦難を伴ったものであっても神の御心としてあると分かると、恵みとして受け入れていくことができます。
またそのときは、こんなの恵みではないと反抗していても、後から振り返ってみると恵みであったなあと思うことがあるのではないのでしょうか。
私たちはそのときどきにおいて、これが恵みであるとはなかなか分からない者でありますが、そこに神に御心があるなら、それはやはり恵みであるのです。神の御心は私たちの思いを超えて働き、当初マイナスに見えることも最終的にはプラスへと変えてくださるのです。
神の恵みとはそういうものであることを覚えたい。目先のことだけで判断できないのです。
説教要旨:
今日の箇所はいわゆる「受胎告知」と呼ばれている箇所であります。
天使からメシア=救い主を宿すといわれて、マリアは当惑します。当惑すると同時、苦悩が始まります。まだヨセフとは婚約中の身でありながら、子を宿すということは、ヨセフの子ではないとの疑いをヨセフに抱かせるに十分なものでありました。
マリアに対する不信の心をヨセフに芽生えさせていくことになる事柄であります。
また世間からも白い目で見られることの覚悟を必要としました。さらには最悪の場合、姦淫の罪で石打ちの刑に処せられることも覚悟することでありました。
ですから当初はとても喜ばしいことだとは思えなかったのです。
むしろ今後のことを考えたら相当の苦難を覚悟する必要さえあったのです。
でも最終的に天使のお告げを神の御心として受け入れていったのであります。
当初はとても神の恵みとして受け入れることができないマリアでありましたが、メシアを宿すことが神の御心であると納得し、受け入れていったのです。
私たちも当初恵みであるとは分からずに、いやむしろこんなの恵みではないと思い、神につらく当たることがありますが、それがたとえ苦難を伴ったものであっても神の御心としてあると分かると、恵みとして受け入れていくことができます。
またそのときは、こんなの恵みではないと反抗していても、後から振り返ってみると恵みであったなあと思うことがあるのではないのでしょうか。
私たちはそのときどきにおいて、これが恵みであるとはなかなか分からない者でありますが、そこに神に御心があるなら、それはやはり恵みであるのです。神の御心は私たちの思いを超えて働き、当初マイナスに見えることも最終的にはプラスへと変えてくださるのです。
神の恵みとはそういうものであることを覚えたい。目先のことだけで判断できないのです。
時刻:
20:55
2010年12月05日「メシアはイエスか」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:マタイによる福音書11章2~14節
説教要旨:
獄中にあって苦難を負えるバプテスマのヨハネは主イエスに問います。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」。
この問いの背後にはヨハネの信仰の迷いと揺れがあります。自分はナザレのイエスはメシアである信じ、その道備えをしてきたが、果たしてイエスは本当にメシアであるのだろうかという疑問であります。何故自分を救いに来てくれないのかという問いであります。
主イエスは答えます(5節)。そのイエスの答えはすべてイザヤ書からの引用であります。預言者イザヤを通して預言されたことが今主イエスにおいて実現しているではないか。どうしてあなたは信じられないのか。主イエスにつまずかない人は幸いである。
ヨハネは獄中の苦難の中にあって、イエスをメシアとして信じたいが、信じきれないところがまだ残っていたのです。それは自分が獄中にいるままで解放されていないからです。メシアの道備えをしてきた自分がどうして獄中で死ななければならないのか。一刻も早く獄中から出られるようにしてくれてもいいではないか。
このようなヨハネの状態は私たちの状態でもあります。それは洗礼を受ける前にもありますし、洗礼を受けたあとにおいても起りうる状態であります。
それは苦難の中にあるとき、苦難がなかなか解決されないとき、苦難に耐え切れなくなるとき、起こりうることであります。
メシアはどこにおられるのか。すぐにでもメシアが来て自分を救ってほしい。それは切実な願いであります。
でもメシアは来られない。そこでつまずくことがあります。
私たちはここで視点を転じる必要があります。メシアが来ているかどうかということを自分のところの範囲だけで判断しないと言うことです。
目を他に転じることです。巷では多くの人がイザヤ書において預言されている癒しなどの神のみわざにあずかっていることを見るべきであるのです。
自分のところにはまだ来ていないかのように見えるが、すでに主イエスは来られている。そのことを信仰においてしっかりと見るべきである。
信仰なしには、そのことを見ることはできません。聖霊において主イエスはどこにでも臨在し、私たちの苦難を共にし、共に担い、苦難からの解放へと神の国の道を進めておられます。目には見えないけれども、密かにメシアとしてあなたのところにもやって来ているのです。
説教要旨:
獄中にあって苦難を負えるバプテスマのヨハネは主イエスに問います。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」。
この問いの背後にはヨハネの信仰の迷いと揺れがあります。自分はナザレのイエスはメシアである信じ、その道備えをしてきたが、果たしてイエスは本当にメシアであるのだろうかという疑問であります。何故自分を救いに来てくれないのかという問いであります。
主イエスは答えます(5節)。そのイエスの答えはすべてイザヤ書からの引用であります。預言者イザヤを通して預言されたことが今主イエスにおいて実現しているではないか。どうしてあなたは信じられないのか。主イエスにつまずかない人は幸いである。
ヨハネは獄中の苦難の中にあって、イエスをメシアとして信じたいが、信じきれないところがまだ残っていたのです。それは自分が獄中にいるままで解放されていないからです。メシアの道備えをしてきた自分がどうして獄中で死ななければならないのか。一刻も早く獄中から出られるようにしてくれてもいいではないか。
このようなヨハネの状態は私たちの状態でもあります。それは洗礼を受ける前にもありますし、洗礼を受けたあとにおいても起りうる状態であります。
それは苦難の中にあるとき、苦難がなかなか解決されないとき、苦難に耐え切れなくなるとき、起こりうることであります。
メシアはどこにおられるのか。すぐにでもメシアが来て自分を救ってほしい。それは切実な願いであります。
でもメシアは来られない。そこでつまずくことがあります。
私たちはここで視点を転じる必要があります。メシアが来ているかどうかということを自分のところの範囲だけで判断しないと言うことです。
目を他に転じることです。巷では多くの人がイザヤ書において預言されている癒しなどの神のみわざにあずかっていることを見るべきであるのです。
自分のところにはまだ来ていないかのように見えるが、すでに主イエスは来られている。そのことを信仰においてしっかりと見るべきである。
信仰なしには、そのことを見ることはできません。聖霊において主イエスはどこにでも臨在し、私たちの苦難を共にし、共に担い、苦難からの解放へと神の国の道を進めておられます。目には見えないけれども、密かにメシアとしてあなたのところにもやって来ているのです。
時刻:
21:25
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