聖書箇所:ルカによる福音書2章1~12節
説教要旨:
今日の箇所で羊飼いにメシアが生まれたことが告げられました。
不思議なことです。当時の常識から言えば、どうして羊飼いなどにメシアの誕生がまず告げられねばならないのか理解に苦しむところであります。
なぜなら彼らは律法を守ることができなかったので、当時の社会において罪深い者とみなされていたからであります。
律法をどれだけ守ったかどうかで罪深さの程度が測られていたからです。
清いメシア誕生は、もっと正しい人たちのところで告げられるべきであると考えられていたからです。
当時の社会においては正しい人とはファリサイ派の人たちが代表的な人でありました。
またファリサイ派も自分たちに主の栄光が現われ、自分たちにメシア誕生が告げられてしかるべきである自負していたのです。
しかし神の御心はそうではありませんでした。羊飼いたちは自分たちは神の救いから遠い存在として思っていました。自分たちは闇の中に生きる者として苦しんでいました。
しかし世間から罪深いとみなされている羊飼いたちのところにメシア誕生が告げられ、主の栄光が彼らの上に照り輝いたのです。
神の栄光は高慢な心をもった者にではなく、自らを空しくする者の上に照り輝くのです。
2011年12月18日「聖霊による受胎」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:マタイによる福音書1章18~25節
説教要旨:
今日の箇所は、聖霊によってメシア(救い主)がマリアの胎に宿ったことが告げられています。
私たち人間の命は聖霊によって命を与えられるのですが、なぜそのことがわざわざ今日の箇所で記されているのでしょうか。
マリアが処女であったから、その処女に人間の命が宿ることは人間わざではなく神のわざ(聖霊のわざ)であることを言うためであるのでしょうか。
それもあるでしょう。
しかしもっとも重要なことは人間の胎を通って神の御子イエス・キリストはお生まれになられたということではないのでしょうか。それこそが聖霊によって宿ったと言われる大切な意味ではないのでしょうか。
主イエスは神の子であるから、人間の胎など通らなくても、この地上に登場することもできたはずです。むしろそんな無駄な時間をかけるのではなく、いきなり30歳ぐらいの姿で登場し、いきなり神の国の福音を宣べ伝えてもよかったはずです。しかしそうではなかったのです。
フィリピ書2章7節にはキリストは「自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現われ」と記されています。人間と同じ者になった、人間の姿で現われたということには、他の人間と同じように、人間の胎を通って生まれたということが含まれています。
それほどにインマヌエルの神であるのです。「神は我々と共におられる」という凄さは母の胎にまであてはまることとしてあるのです。罪深い人間の内部にまで宿ろうとされる神、それほどまで私たちと共におられようとされる神の恵み、それこそ聖霊によって宿ったと言われなければならない奇跡がメシア誕生にはあるのです。
説教要旨:
今日の箇所は、聖霊によってメシア(救い主)がマリアの胎に宿ったことが告げられています。
私たち人間の命は聖霊によって命を与えられるのですが、なぜそのことがわざわざ今日の箇所で記されているのでしょうか。
マリアが処女であったから、その処女に人間の命が宿ることは人間わざではなく神のわざ(聖霊のわざ)であることを言うためであるのでしょうか。
それもあるでしょう。
しかしもっとも重要なことは人間の胎を通って神の御子イエス・キリストはお生まれになられたということではないのでしょうか。それこそが聖霊によって宿ったと言われる大切な意味ではないのでしょうか。
主イエスは神の子であるから、人間の胎など通らなくても、この地上に登場することもできたはずです。むしろそんな無駄な時間をかけるのではなく、いきなり30歳ぐらいの姿で登場し、いきなり神の国の福音を宣べ伝えてもよかったはずです。しかしそうではなかったのです。
フィリピ書2章7節にはキリストは「自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現われ」と記されています。人間と同じ者になった、人間の姿で現われたということには、他の人間と同じように、人間の胎を通って生まれたということが含まれています。
それほどにインマヌエルの神であるのです。「神は我々と共におられる」という凄さは母の胎にまであてはまることとしてあるのです。罪深い人間の内部にまで宿ろうとされる神、それほどまで私たちと共におられようとされる神の恵み、それこそ聖霊によって宿ったと言われなければならない奇跡がメシア誕生にはあるのです。
時刻:
22:20
2011年12月11日「戸をたたく神」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ヨハネの黙示録3章14~22節
説教要旨:
待降節は主が来るのを待つときですが、今日の箇所ではすでに主は来ています。
主は遠くに立って私たちが主へと来るのを待つのではなく、すでに私たちのところに来て戸をたたき、私たちが開けるのを待っておられるのです。
それなのに私たちは、なかなか戸を開けようとはいたしません。なぜなら戸をたたいている方が主であるとは信じないからです。主が「わたしは救い主である」と宣言しているにもかかわらず疑っているからです。
私たちがなかなか戸を開けないにもかかわらず、主は辛抱強く戸をたたき続けているのです。
私たちが戸をたたく方が主であると認め、信じ、戸を開けるのを待たれているのです。
主が私たちの拒絶にもかかわらず、なおも戸をたたき続けるのは一重に私たちを救おうとする主の愛からであります。
私たちを愛してやまない主の熱情があります。そんな主の熱情、愛に私たちが打たれるまで主はたたき続けるのです。そして私たちが主の熱き愛に気付き、戸を開け、主を迎え入れるとき、私たちに新しい命が注がれます。その命は主の愛に応える私たちの熱き愛を内に秘めた命です。
主の愛に私たちが燃やされるのです。
説教要旨:
待降節は主が来るのを待つときですが、今日の箇所ではすでに主は来ています。
主は遠くに立って私たちが主へと来るのを待つのではなく、すでに私たちのところに来て戸をたたき、私たちが開けるのを待っておられるのです。
それなのに私たちは、なかなか戸を開けようとはいたしません。なぜなら戸をたたいている方が主であるとは信じないからです。主が「わたしは救い主である」と宣言しているにもかかわらず疑っているからです。
私たちがなかなか戸を開けないにもかかわらず、主は辛抱強く戸をたたき続けているのです。
私たちが戸をたたく方が主であると認め、信じ、戸を開けるのを待たれているのです。
主が私たちの拒絶にもかかわらず、なおも戸をたたき続けるのは一重に私たちを救おうとする主の愛からであります。
私たちを愛してやまない主の熱情があります。そんな主の熱情、愛に私たちが打たれるまで主はたたき続けるのです。そして私たちが主の熱き愛に気付き、戸を開け、主を迎え入れるとき、私たちに新しい命が注がれます。その命は主の愛に応える私たちの熱き愛を内に秘めた命です。
主の愛に私たちが燃やされるのです。
時刻:
21:12
2011年12月04日「神が目を留めてくださる」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ルカによる福音書1章46~56節
説教要旨:
マリアは主を讃美しています。それには理由があります。
それは主が「目を留めてくださった」からであります。
待降節は主が目を留めてくださっておられるを確信し、そして目を留めてくださっておられるだけでなく、実際に私たちのところにやってきて、私たちと共におられることを待つときでもあります。
目を留める仕方もいろいろあります。人の弱点や欠点ばかりを探すために目を留める仕方もあります。主はそうではなく、愛ゆえに目を留めるのです。
主の目の留め方は愛ゆえであります。救うことを目的として目を留めるのです。
なぜ主はマリアに目を留められたのでしょうか。それはマリアの低さにあります。
マリアの低さはまず身分的な低さにあります。
差別され、抑圧された女性の一人としてのマリアの姿があります。
ただそれだけでなく、その心においても主に低くぬかずく者でもあったのです。
そのことでマリアは主によって目を留められ、高められるのです。
主は低くぬかずく者のところに来て共に住まわれます。
主が共に住まわれることで、私たちは天へと高められるのです。
一方、主は驕り高ぶる権力者を低くされます。驕り高ぶる者の様は神のごとくなろうとする様であり、それは主の御心ではありません。ゆえに主はその人を打ち砕きます。
待降節にあって、私たちもマリアのような姿勢で主のご降誕を待つ者でありたい。
説教要旨:
マリアは主を讃美しています。それには理由があります。
それは主が「目を留めてくださった」からであります。
待降節は主が目を留めてくださっておられるを確信し、そして目を留めてくださっておられるだけでなく、実際に私たちのところにやってきて、私たちと共におられることを待つときでもあります。
目を留める仕方もいろいろあります。人の弱点や欠点ばかりを探すために目を留める仕方もあります。主はそうではなく、愛ゆえに目を留めるのです。
主の目の留め方は愛ゆえであります。救うことを目的として目を留めるのです。
なぜ主はマリアに目を留められたのでしょうか。それはマリアの低さにあります。
マリアの低さはまず身分的な低さにあります。
差別され、抑圧された女性の一人としてのマリアの姿があります。
ただそれだけでなく、その心においても主に低くぬかずく者でもあったのです。
そのことでマリアは主によって目を留められ、高められるのです。
主は低くぬかずく者のところに来て共に住まわれます。
主が共に住まわれることで、私たちは天へと高められるのです。
一方、主は驕り高ぶる権力者を低くされます。驕り高ぶる者の様は神のごとくなろうとする様であり、それは主の御心ではありません。ゆえに主はその人を打ち砕きます。
待降節にあって、私たちもマリアのような姿勢で主のご降誕を待つ者でありたい。
時刻:
20:42
2011年11月27日「主の到来の待望」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:マラキ書3章1~5節、13~20節
説教要旨:
今日からアドベントに入ります。メシアの到来を待ち望むときであります。
今日のマラキ書には、そのメシアの到来が預言されています。
でも預言されているメシアは怖い裁きを伴ってやってくるように描かれています。正しくない者に対しての裁きは容赦なく臨みます。
神に仕える者と仕えない者との峻別が言われています。
そんな神を前にして私たちは、神の裁きに誰が耐えうるのかと思ってしまいます。
一体私たちは神の御前にあって、正しいと主張できるのでしょうか。主張できる資格をもった者など誰もいません。
誰もが火に焼かれるしかない者であります。
そんな私たちでありますが、クリスマスにやってきたメシアはそうではありませんでした。
愛と憐れみに満ちたメシアでありました。すなわちイエス・キリストでありました。
本来なら罪ゆえに神の御前に滅ぶしかない私たちでありますが、神はそんな私たちを見捨てず救おうとされ、愛する御子イエス・キリストを私たちに与えられたのです。
私たちの罪をゆるしてくださいと神にとりなすことは人間でもできますが、罪を贖い、ゆるすことは人間にはできません。神のみができることであります。
ゆえに私たちは、絶大な権力をもった超人的な人間をメシアとして待ち望むのではなく、罪を贖い、ゆるすメシアを待ち望むのです。そこに私たちの本当の救いがあるのです。
どんなに力をもった人間でも私たちの罪を贖い、ゆるす力はもっていないのです。
説教要旨:
今日からアドベントに入ります。メシアの到来を待ち望むときであります。
今日のマラキ書には、そのメシアの到来が預言されています。
でも預言されているメシアは怖い裁きを伴ってやってくるように描かれています。正しくない者に対しての裁きは容赦なく臨みます。
神に仕える者と仕えない者との峻別が言われています。
そんな神を前にして私たちは、神の裁きに誰が耐えうるのかと思ってしまいます。
一体私たちは神の御前にあって、正しいと主張できるのでしょうか。主張できる資格をもった者など誰もいません。
誰もが火に焼かれるしかない者であります。
そんな私たちでありますが、クリスマスにやってきたメシアはそうではありませんでした。
愛と憐れみに満ちたメシアでありました。すなわちイエス・キリストでありました。
本来なら罪ゆえに神の御前に滅ぶしかない私たちでありますが、神はそんな私たちを見捨てず救おうとされ、愛する御子イエス・キリストを私たちに与えられたのです。
私たちの罪をゆるしてくださいと神にとりなすことは人間でもできますが、罪を贖い、ゆるすことは人間にはできません。神のみができることであります。
ゆえに私たちは、絶大な権力をもった超人的な人間をメシアとして待ち望むのではなく、罪を贖い、ゆるすメシアを待ち望むのです。そこに私たちの本当の救いがあるのです。
どんなに力をもった人間でも私たちの罪を贖い、ゆるす力はもっていないのです。
時刻:
20:55
2011年11月20日「神は愛なり」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ヨハネの手紙一、4章13節~21節
説教要旨:
18節で「愛には恐れがない」「完全な愛は恐れを締め出します」と言われています。
ここで言われている愛は神の愛です。神の愛には恐れがないのです。
なぜなら神は私たちの罪を贖い、ゆるす御方であるからです。
神は私たちの罪過ゆえに、懲らしめとしての罰を与える御方ではありません。
そのことが御子イエス・キリストの十字架によって示されたのです。
御子イエス・キリストは十字架で私たちに代わって私たちの罪を負われ、罪を贖い、私たちの罪をゆるされました。
だから私たちは恐れなく神に近づくことができるのです。
これがもしそうではなく、私たちの罪に対して絶えず厳しい罰をもって臨む御方であるなら、私たちは神に近づくをことを恐れます。できるだけ遠ざかりたいと思うことでしょう。
そのような神を私たちは愛することができるでしょうか。
神はまず私たちをこよなく愛していることを十字架で示されました。裁くだけの神ではなく徹底的にゆるす神として私たちの前に現われたのです。
私たちはただ漠然と神を愛するのではないのです。十字架に現われた神を愛するのです。
十字架で現われた神を愛するには、神の愛がうちに宿らなければなりません。
それが洗礼において起こります。
またその人のうちに宿る神の愛は神を愛するだけでなく、兄弟姉妹を愛する愛ともなります。
ある人が「神を愛している」言いながら、兄弟を憎むなら、それは神の愛がまだその人のうちに充満していないからであります。あるときは兄弟を愛し、またあるときは憎むという状態であるのです。あるいはある人を愛し、ある人を憎むという中途半端な状態であるのです。
悲しいかな、私たちの現実はそんなものです。でも神は聖霊でもって神の愛を充満させようとされておられます。ですから私たちは悲しい私たちの現実を祈りのうちに聖霊によって変えてもらいましょう。
そのように欲するなら、祈るなら、神は確実に私たちを造り変えてくださるのです。
説教要旨:
18節で「愛には恐れがない」「完全な愛は恐れを締め出します」と言われています。
ここで言われている愛は神の愛です。神の愛には恐れがないのです。
なぜなら神は私たちの罪を贖い、ゆるす御方であるからです。
神は私たちの罪過ゆえに、懲らしめとしての罰を与える御方ではありません。
そのことが御子イエス・キリストの十字架によって示されたのです。
御子イエス・キリストは十字架で私たちに代わって私たちの罪を負われ、罪を贖い、私たちの罪をゆるされました。
だから私たちは恐れなく神に近づくことができるのです。
これがもしそうではなく、私たちの罪に対して絶えず厳しい罰をもって臨む御方であるなら、私たちは神に近づくをことを恐れます。できるだけ遠ざかりたいと思うことでしょう。
そのような神を私たちは愛することができるでしょうか。
神はまず私たちをこよなく愛していることを十字架で示されました。裁くだけの神ではなく徹底的にゆるす神として私たちの前に現われたのです。
私たちはただ漠然と神を愛するのではないのです。十字架に現われた神を愛するのです。
十字架で現われた神を愛するには、神の愛がうちに宿らなければなりません。
それが洗礼において起こります。
またその人のうちに宿る神の愛は神を愛するだけでなく、兄弟姉妹を愛する愛ともなります。
ある人が「神を愛している」言いながら、兄弟を憎むなら、それは神の愛がまだその人のうちに充満していないからであります。あるときは兄弟を愛し、またあるときは憎むという状態であるのです。あるいはある人を愛し、ある人を憎むという中途半端な状態であるのです。
悲しいかな、私たちの現実はそんなものです。でも神は聖霊でもって神の愛を充満させようとされておられます。ですから私たちは悲しい私たちの現実を祈りのうちに聖霊によって変えてもらいましょう。
そのように欲するなら、祈るなら、神は確実に私たちを造り変えてくださるのです。
時刻:
21:21
2011年11月06日「終末の希望」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ヨハネの黙示録7章1-17節
説教要旨:
天使たちによって額に刻印を押された者たちの数が14万4千人であると記されています。
この数は象徴的な意味で言われているのであって、いかに多くの人々が刻印を押されるかを言わんとしているのです。そしてそれらの人たちは白い衣を身につけて神を賛美していたのですが、白い衣はキリストの十字架の血で洗って白くされたものであります。すべての罪が贖われた証拠であります。御国において私たちは罪を犯すことはなく、白い衣のままで神を賛美するのです。
そして白い衣は罪によって汚れることがないだけでなく、朽ちることのない衣であります。
朽ちることのない白い衣を着せられているということは言い換えれば、永遠の命をいただいているということであります。罪の支払う代価が死であるなら、その罪がすべて贖われるときは、死から私たちは自由にされるということです。すなわち永遠の命が与えられるのです。
そして御国においては、飢えること、渇くこともなく、どのような暑さを襲うことのないのです。
キリストご自身が私たちの牧者となり、命の水の泉へ導き、目から涙をことごとくぬぐわれるのです。
その喜びはどんなに大きいことでしょうか。人生には涙がつきものです。その流した涙はすべて神が拭い取ってくださる。御国では、もはや涙に満ちた人生の道を歩む必要はないのです。
私たちは、とどまるところを知らないかのように流れてくる涙を飲むのではなく、生ける命の水を飲むことになるのです。
説教要旨:
天使たちによって額に刻印を押された者たちの数が14万4千人であると記されています。
この数は象徴的な意味で言われているのであって、いかに多くの人々が刻印を押されるかを言わんとしているのです。そしてそれらの人たちは白い衣を身につけて神を賛美していたのですが、白い衣はキリストの十字架の血で洗って白くされたものであります。すべての罪が贖われた証拠であります。御国において私たちは罪を犯すことはなく、白い衣のままで神を賛美するのです。
そして白い衣は罪によって汚れることがないだけでなく、朽ちることのない衣であります。
朽ちることのない白い衣を着せられているということは言い換えれば、永遠の命をいただいているということであります。罪の支払う代価が死であるなら、その罪がすべて贖われるときは、死から私たちは自由にされるということです。すなわち永遠の命が与えられるのです。
そして御国においては、飢えること、渇くこともなく、どのような暑さを襲うことのないのです。
キリストご自身が私たちの牧者となり、命の水の泉へ導き、目から涙をことごとくぬぐわれるのです。
その喜びはどんなに大きいことでしょうか。人生には涙がつきものです。その流した涙はすべて神が拭い取ってくださる。御国では、もはや涙に満ちた人生の道を歩む必要はないのです。
私たちは、とどまるところを知らないかのように流れてくる涙を飲むのではなく、生ける命の水を飲むことになるのです。
時刻:
21:34
登録:
投稿 (Atom)