2013年03月31日「キリストの墓はどこに」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書24章1~12節

説教要旨:
キリストの遺体が納められた墓の中は空っぽでした。
婦人たちは、天使からキリストは復活したことを告げられます。
彼女らはそのことを弟子たちに報告したのですが、弟子たちは信じることが出来なかったのです。
私たちも復活ということがなかなか信じられない者です。
しかしこのふつうには信じられない復活を世々の教会は信仰の核として大切にしてきました。核でありますからそれを失うと信仰は空洞化してしまいます。その外側にいかにいろいろなものを塗りたくっても、その塗りたくったものでもって、これが信仰ですと主張してみても空しいのです。中身が空洞であるからです。
キリストの遺体がない空っぽの墓ということだけで復活が信じられないならやはりその信仰は中身のないものといえます。墓が空っぽであるのは、誰かが遺体を盗んだからだというようにキリストの復活を否定してみてもそれで信仰が完成されるものではありません。私たちは天使たちの言葉をまた聖書の復活証言を信じることです。復活を信じるのに空っぽの墓で十分ではないですか。
キリストの墓の場所は今日誰もどこにあったと確定できない事柄となっています。
世々の教会はそのことにあまり関心がなかったといえます。
キリストが復活したからこそ、今も生きて働いておられるからこそ墓など関心事ではなかったのではないのでしょうか。もし墓が空っぽでなかったなら、キリストの遺体が依然として納められたままであるなら、今日のようにキリスト教会は存在していなかったことでしょう。
墓が空っぽであったがゆえに弟子たちの心の空洞が、また私たちの心の空洞がよみがえられたキリストによって満たされることになったのではないのでしょうか。