2013年06月16日「神の愛の器」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙9章19~29節

説教要旨:
神は一体どのような目的をもって私たちを召し出しておられるのでしょうか。
24節では「神は私たちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」と言われています。神は、私たちが神の憐れみの器となることを望まれておられます。私たちはすでに憐れみを盛る器として私たちを造られています。
それにふさわしく生きることが求められているのですが、私たちは憐れみとは違うものを盛ってしまうことをしばしばしてしまうのです。
たとえば自己義認という罪です。自分は正しい、自分には罪がないという傲慢の罪を盛ることをしてしまうのです。
そうなると神が望まれる憐れみの器とはならなくなるのです。
私たちは本来なら罪ゆえに神の怒りを盛る器でしかありません。
にもかかわらず神はイエス・キリストの十字架の死により、私たちの罪を贖い、ゆるしてくださいました。
そのことで私たちは神の憐れみの器として新たに造られたのです。神の怒りの器は十字架で打ち砕かれたのです。
新たに造られた憐れみの器にふさわしく生きるには、自己義認の生き方、自己栄化の生き方を否定して生きることです。
ミカ書6章8節には「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と言われています。
神の憐れみの器として生きることを要約すればミカ書の上記の言葉になるといえます。
私たちはともすれば神の憐れみ以外のいろいろなものを盛ることをします。それらのものに隠れて憐れみが見えなくなることもあります。
それにもかかわらず神は器を壊すことはなさらず、なおも憐れみを盛る器にふさわしく歩むことを忍耐強く望んでおられます。
それはキリストの十字架ゆえであります。十字架に現れた神の愛に応え、その愛に倣う生き方をしてまいりたいと思います。