2013年08月11日「真の神殿」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書2章13~22節

説教要旨:
イエスは今日の箇所で神殿信仰を批判をしています。
単に神殿を商売の家としてはいけないと批判しているだけではありません。
エルサレム神殿という特定の場所に神が住むのではないことを告げています。
神は普遍的にどこにでも住まわれる御方であることを言わんとしています。
それを特定の場に神を閉じ込め、そこで商売をして儲けるなどもってのほかであるのです。
そんな神殿とは違う神殿をイエスは説いています。
イエスが「三日で建て直してみせる」と言われた神殿とは「ご自分の体のことだった」のです。
つまりキリストご自身が神殿であるのです。
キリストご自身は聖霊においてどこにでも住まわれる御方です。
キリストの名によって招かれ、人々が集うところはすべて神殿であります。
目には見えないけれども、そこには確かに霊的な神の家があるのです。
私たちはとかく目に見える建物を伴った教会を「キリストのからだ」として考えがちになりますが、そうではなくイエスが言われるのは目には見えない霊的な神殿が教会であるのです。
外的な形が伴わなくても、人々がキリストの名によって集うているなら、場所にかかわらずキリストが聖霊において臨在しますし、キリストの恵みを私たちは受けることができるのです。
世界では、目に見える外的形を伴った神殿が多く造られています。そしてそこに神ないし神々が住むと考えられています。また多くの神殿が民族主義ないしは国家主義に利用されてきました。イエスはそのような神殿ではなく、
イエス・キリストご自身が神殿そのものであり、その神殿においては民族主義や国家主義は無縁であり、どの民族もどの国民も招かれ、神と真に出会うことができるのだと言われているのです。

2013年08月04日「平和の基礎キリスト」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章11~22節

説教要旨:
14節「キリストは私たちの平和であります」と言われています。
聖書では、あるときは平和、またあるときは平安と訳されていますが、大体は同じ言葉が使用されています。それだけ広い視野をもった言葉であるということです。
平安と言う言葉を聞いて思うのが、不安であります。不安があると、平安はありません。
今日の箇所において、キリストは敵意という隔ての壁を取り壊し、十字架によって敵意を滅ぼされましたと言われています。
敵意というものは私たちに不安な気持ちを抱かせます。
ある相手に対して敵意を抱くということは、相手から何らかの害を加えられるのではないかという不安です。
相手に対してとても平安でいることはできません。
不安を取り除こうとすると、相手に対して身構えます。相手が攻撃をしかけてきても、その攻撃を跳ね返すだけの力をこちらはもとうとします。相手がそれに気付くとき、相手もまたこちらの攻撃に対して、負けないだけの力をもとうとするのです。そのようなことが連鎖的に起こり、事態はますます悪化していくのです。敵意は深刻化するのです。不安は増すのです。
世界には、これに似たことが多くあります。また私たちの身の回りにおいても多く見られることです。
パウロが生きた当時は、ユダヤ人と異邦人という隔ての壁がありました。お互い仲が悪かったのです。
キリストはこの世にある様々な敵意という隔ての壁を十字架によって取り壊されたのです。
十字架によってということは、敵意を取り除くのは、非暴力によることを告げています。
十字架に現れた神の愛によることを告げているのです。武力という力ではなく、愛という力によって敵意を克服することが私たちには求められています。
ではその愛の力を受けるにはどうしたらいいのでしょうか。パウロはローマの信徒への手紙5章5節で「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と言っています。
私たちは祈りにおいて聖霊の注ぎを祈るのです。すると必ず平和の主イエス・キリストが聖霊において私たちの内に宿り、私たちをキリストの平和の使者として用いてくださるのです。