2010年10月31日「キリストの権威」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マタイによる福音書9章1~8節

説教要旨:
今日の箇所は中風の人の癒しの物語であります。
主イエスによってこの人は癒されるのですが、主イエスはこの人に罪の赦しを宣言しています。
このことが律法学者に問題とされます。なぜなら罪を赦す権威をもっているのは神だけだからです。
律法学者は主イエスを神とは見ていません。ですからイエスの権威を問題にしているのです。
そして権威をもっていないイエスが罪の赦しを宣言するなどということは、神を冒瀆するものと見るのです。
権威といえば、律法学者も当時の社会にあっては宗教的権威をもっていました。
でもその権威は神から直接来る権威ではありませんでした。
この世の宗教的権力によって生み出される権威であり、権力を笠に着た権威でありました。
一方の主イエスの権威は神から直接来る権威であり、その権威は霊的なものでありました。
この世の権力を盾にした権威ではありませんでした。
霊的な権威であるがゆえに、癒しを伴い、また罪の赦しを宣言することができたのです。
世には様々な権威と称されるものがありますが、それらの多くは、神に由来する権威ではありません。
霊的な権威ではないですから、いつかその権威が崩れ去るときがやってきます。
私たちが信頼すべき権威は神の権威、キリストの権威です。私たちが服従すべき権威は神の権威、キリストの権威です。人間が作り上げる権威ではありません。
キリストの権威に服従するとき、中風の人と同じように、私たちには自由と命が与えられるのです。

2010年10月24日「試練と誘惑」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヤコブの手紙1章2~8節、12節~15節

説教要旨:
今日の箇所で、試練と誘惑が取り上げられています。
まず試練ですが、「この上ない喜びと思いなさい」と言われています。
通常試練は皆避けて通りたいものであります。それを喜びなさいと言われますと抵抗を覚えるのではないのでしょうか。なぜ試練に出会うとき、喜びなさいと言われているのでしょうか。それは神から来るからです。ただ試練だけが来るのではなく、主イエスとともに来るからです。また主イエスが試練とともにおられるから、それは喜びとなるのです。
また主がともにいることで試練を忍耐することができるのです。もし主がいなければ、私たちは大きな試練に耐えることができないことになるのです。
私たちは試練の中にあって、主イエスの臨在を祈り求めるべきであります。いささかも疑わずに祈り求めるべきであるのです。この御方こそが試練を忍耐する鍵となるのです。
さらに誘惑ですが、誘惑は神から来るものではありません。それはサタンから来るものです。
サタンは私たちを神から引き離すために一つの手段として誘惑を利用します。
サタンの誘惑は私たちの欲望を喚起し、欲望の最大限化を図ろうと臨んできます。
そして私たちが欲望を自分でコントロールできないほどになると、そこに罪が生まれます。
さらに最悪の場合は死に至ることにもなるのです。
この誘惑に打ち勝つには何が必要なのでありましょうか。それは神より私たちに与えられている完全な賜物であるイエス・キリストであります。40日間にわたる荒野でのサタンの誘惑に打ち勝たれた主イエスが必要なのです。主が私たちを誘惑から守ってくれるのです。
ですからもし主がいなければ、私たちはサタンの狡猾な誘惑に唆されて、罪を犯してしまうのです。
試練のときも、サタンの誘惑のときも、どちらの場合も私たちには主イエスが必要なのです。

2010年10月17日「主イエスの焼き印」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節

説教要旨:
ガラテヤ教会の人々の間では、パウロの説いた福音から離れていくということが起こっていました。
それは律法の行いと割礼の遵守によって救いを得るというものでありました。
特に、割礼の遵守をめぐっての問題は迫害と関係していました。割礼はユダヤ人の誇りでありました。
神の選びの民としてユダヤ人の誇りの目に見えるしるしでありました。
それを否定することで、ユダヤ人から異端として迫害を受けることは目に見えていました。
だから迫害を避けるために割礼を異邦人にも施すということをしていたのです。
そこでパウロは、もしそうであるなら、キリストの十字架はどうなってしまうのか。
十字架の恵みをあなたがたは無にするのかと鋭く問うのです。
迫害という苦難を避けるために、十字架の恵みを台無しにしてはいけないのだ。
キリストのための苦難こそ、キリストの十字架に私たちが結びあわせられる恵みの出来事であり、キリストもまた私たちと共に苦しんでおられるのであるから、そのことを誇りなさいとパウロは言うのです。
パウロ自身、数々の迫害に遭い、そのことでいわば目に見えないイエスの焼き印を受けていますが、
それはパウロにとって恵みであり、誇りであります。
パウロは迫害という苦難を通して、キリストの恵みに触れていきました。
私たちも迫害を避けるのではなく、迫害ということを通して働くキリストの恵みを豊かに受けていく信仰者でありたい。

2010年10月10日「イエスこそ真の隣人」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ルカによる福音書10章25~37節

説教要旨:
今日の箇所は有名な良きサマリア人のたとえであります。
主イエスは今日のたとえを通して、一体誰が真の隣人であるのかを私たちに問うておられます。
私たちは距離的、空間的意味合いで隣人を考えることもあります。でもそれは真の隣人でないこともまた多いのです。また私たちは、心情的な近さ、民族的近さ、文化的近さ、宗教的近さなどを考慮に入れて、隣人を考えることもあります。
でもサマリア人のたとえを通して、主イエスは、そんなところに真の隣人はいないことを示しています。
距離的近さから言えば、サマリア人は確かにユダヤに隣接した地域に住んでいたということで隣人でありましょう。
しかしユダヤ人から見れば、とても隣人とは思えない人たちでありました。
隣人という範疇にはなかったのです。なぜならば彼らは確かに距離的近さ、また宗教的、民族的にはある程度の近さはもっておりますが、宗教的、民族的には純粋性を失っており、穢れた人たちであるとの認識をもたれていたのです。サマリア人に対しての近親憎悪的な感情というものがユダヤ人の間にはあったのです。
穢れた者と交われば自分も穢れるとの考えのもと、とても交わりの対象とはみなされない人たちであったのです。
そんなサマリア人が追いはぎに襲われ半殺しになっている旅人の助け主となったのです。
祭司を含め同胞の誰からも助けを得ることができない状況で、普段とても隣人とは思われないサマリア人が助け主となったのです。
このサマリア人は実はイエス・キリストを示していることを私たちは覚えなければなりません。
主イエスこそ、誰も助けてくれる人がいない中にあって、瀕死の重傷を負った私たちを見つけ、介抱し、救ってくれた御方であります。その主イエスこそが私たちの真の隣人であります。
主イエスは当時のユダヤ人からは神を冒涜するものとして嫌われました。また穢れた人たち(罪人)とみなされた人たちと進んで交わることで、主もまた穢れたものとみなされました。
しかしそんな主イエスこそが、私たちの真の隣人となってくれるのです。

2010年10月03日「今がそのとき」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ヨハネによる福音書4章16~30節

説教要旨:
主イエスはサマリアの女と出会っています。その出会いは女の生き方を転換させるに足るものでありました。
女はいままで幾度も結婚し、そして離婚してきました。どこに彼女の問題があるのでしょうか。
彼女の性格に問題があるからなのでしょうか。それとも相手の夫に問題があったからなのでしょうか。
夫に問題があったとしても、どうしてそのような問題のある男性と女は結婚をしたのでしょうか。
イエスは女の生き方に問題ありとみました。
聖書では、結婚は神とイスラエルとの契約関係の類比において考えられています。
神とイスラエルの「わたしとあなた」という人格的関係の類比的関係を男と女の結婚関係において見ているのです。
この女性が幾度も結婚に失敗しているのは、結婚の根幹に関わるところにあるとイエスは見たのです。
それは「あなたは何を礼拝しているのか」ということであります。何を礼拝するかということは何を信じるかということであります。
彼女の信仰が問題とされているのです。彼女の信仰の対象は場所です。礼拝すべき場所はゲリジム山かエルサレムかと女は主イエスに問うています。場所信仰はある意味で偶像礼拝です。
神との人格的交わりはそこにはありません。そのような信仰では、結婚相手との関係も人格的関係を結ぶことができないのです。それでは結婚は長続きしません。
山や神殿にのみ神は臨在する御方ではありません。神はある特定の場所だけにいるわけではありません。
私たちが霊と真理でもって礼拝するとき、神はどこにでも臨在されるのです。
そして今朝も私たちが霊と真理でもって礼拝するとき、神は確かに臨在されており、まことの礼拝が神に献げられているのです。