2012年08月26日「聖霊の法則」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙8章1~10節

説教要旨:
今日の箇所の1,2節で「従って、今やキリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」とパウロは言っています。
前の7章25節でパウロは「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」と言っています。要するに自分自身の中で分裂が起こっているのです。
心では神の御心に沿いたいと思うのだが、体においてはそうすることができないという私たちも経験する状態をパウロも経験しているのです。
そのような状態のままでは私たちは罪を犯し続け、罪は累積し、重荷となってまいります。
この行き先は死であります。罪の重荷に耐えきれず、私たちは押しつぶされるしかなくなります。
そこで私たちは救いを神に求めることになるのです。神のみが罪の重荷から私たちを解放してくれる御方であるからです。神に救いを求めるとき、イエス・キリストの御手が私たちに差し出されるのです。
その御手は十字架の御手です。私たちはキリストに結ばれます。そいて主イエスの十字架の御手は罪の重荷から私たちを解放するのです。
罪から私たちが解放されるとは、それはまた死から解放されることにもなります。
聖書は罪が支払う代価は死であると説きます。だとすれば、罪から解放されることは死からも解放されることになるのです。
そして私たちは死から解放されて、永遠の命をいただくことができるのです。これが霊の法則であります。
さらに私たちは死ぬべき体のままでいるわけではありません。その体にキリストが聖霊によって宿るのです。
キリストが聖霊において私たちの内に宿るとき、私たちの死ぬべき体は永遠の命を宿す体へと造り変えられるのです。
御心を行いえない体は御心を行いうる体へと造り変えられるのです。ここに心と体の分裂は止揚され、大いなる平安が私たちに訪れるのです。これもまた霊の法則といえるのです。

2012年08月12日「神のわざと人間のわざ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書7章36~50節

説教要旨:
今日の聖書の箇所では、2人の人物がイエスと出会っています。
一人はファリサイ派のシモンです。彼はファリサイ派であるにもかかわらずあえてイエスを家に迎え入れました。相当の決断であります。
よほどイエスに関心をもっていたことでしょう。そのイエスへの関心は律法にあると言っていいでしょう。ファリサイ派にとって律法は命と言っていいほどのものです。しかしイエスの律法理解はかなりファリサイ派とは違ったものであったので、一度真意を確かめたかったのかも知れません。
しかしイエスの話を聞く前に、一人の罪深い女が家に入ってきます。
そして思いもかけない行動を取るのです。「イエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(38節)のです。ファリサイ派のシモンはこの女がどういう女であるか知っていました。
ですから女の行動をなすがまま受け入れているイエスを心の中で詰るのです。イエスの受け入れは容認できないのです。
シモンなら、当然女の行為を受け入れる余地はありません。罪深い女と接触することは自分もまた穢れると思っていたからです。そんなシモンに対してイエスは譬え話をもって語ります。500デナリオンの借金を負った人と50デナリオンの借金を負った人の話です。
どちらもその借金を返すことができない状態でした。しかし金貸しは二人とも借金を帳消しにしたのです。金貸しは神です。借金とは罪を言い表しています。私たちは皆神に対して借金(罪)を負ったものであります。
そしてその借金は額の大小によらず、返すことができないのが現実であるのです。
にもかかわらず帳消しにされた(罪ゆるされた)のです。
ファリサイ派シモンの考えでは、50デナリオンぐらいなら自力で返せると思われる額です。
その額は自分が負っている借金であると考えたかもしれません。シモンは自分には罪がないとは思ってはいませんが、罪深い女よりはずっと少ない額の借金であると思っていたことでしょう。
女は500デナリオンもの借金を負っているのだと考えたことでしょう。
しかし50デナリオンという額の借金ですら、本来は自力で返せるようなものではないということをシモンは知るべきでありました。人間のわざで返せる額であるとのシモンの考えをイエスは打ち砕きます。50デナリオンであれ、500デナリオンであれ、神によってでしか帳消しになることはないのだとシモンは知るべきであったのです。
私たちはシモンのように少ない額の借金しか神にしていないと思うよりも、とてつもない額の借金をしている者であることを自覚することが大切です。破産状態にあると思うことです。しかし喜ぶべきかな、神はすべてゆるしてくださった。その喜びから神への限りない愛の思いが、また行動が生まれてくるのではないのでしょうか。

2012年08月05日「今ある未来」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書2章1~5節

説教要旨:
イザヤが見させられている幻は、確かに未来にかかわることです。
しかしその神の未来が現在にすでにあるというのが聖書の理解です。
神が見させたものでありますから、幻の主体者は神であります。
神であるがゆえに、その幻はすでに起こっていることとして理解するのです。
見えない事実を確認するのが信仰です。
では具体的にすでに起こっている神の平和の未来とは何なのでしょうか。
それはイエス・キリストです。
2000年前に神は御子キリストを通して神の平和を現されました。
キリストがゴルゴタの丘で十字架にかかられることで、神の平和はやってきました。十字架にこそ真の平和があります。
しかしその完成を私たちは未来(キリストの再臨のとき)に待たねばなりません。
でもすでに神の平和はキリストと共にやってきていることは確かなのです。
いかに今の時代が暗く見えようとも、平和の光は届いています。
主の神殿の山(ゴルゴタの丘)から、光を放っています。その光に導かれ、世界の民はそこに向かいつつあります。
キリスト者はすでにその山にやって来た者であります。
そこで主の御言葉を聴き、御言葉に従うのです。主は平和の御言葉を私たちに告げます。
神の平和の道を私たちに示されます。示された私たちは、その道を歩む者としてあります。
「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする、国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」神の御国へとキリストと共に歩む、そんなキリスト者でありたい。