2013年10月20日「リスクをとる信仰」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙11章8~12節

説教要旨:
リスクをとることに日本人は消極的であるといわれます。
そのことを裏返せば安全志向である、堅実であるという評価になります。
一方あまりにもリスクを避けることがまさると、事態は前進することなく、問題が先送りされていくということになります。
では信仰においてリスクをどう考えたらいいのでしょうか。
今日の聖書の箇所で「信仰によって」と言われています。
「アブラハムの信仰によって」、あるいは「サラの信仰によって」と言われていないことに注目したいと思います。「信仰によって」と聞くと、何か私たちが所有する信仰によって、その信仰の強さ、深さによってと受け取りがちになりますが、そうではなく、信仰と訳されていますが、誤解されないために「真実によって」と訳すべきでしょう。
それも「神の真実によって」と訳すことで誤解なく受け取ることができるのではないのでしょうか。
つまり信仰においてリスクをとるということは、背後に神の真実があるということです。
神は約束されたことを必ず実現される御方です。その神の真実が私たちがリスクをとる態度において大事になるのです。いや神が約束されておられるなら、その約束の実現に向けて神がリスクを引き受けてくださるはずである。だから私たちは行き先にリスクがあろうと、あえて神の真実に支えられて旅立つことができるのです。神の真実を信じるとき、そこに私たちの信仰が生まれてくるのです。
アブラハムも「行き先も知らずに出発したのです」(8節)。「行き先も知らず」ということは、
かなりリスクが伴います。普通ですと、リスクが高いなら、無茶せず行くことはやめろとなるでしょう。
しかしアブラハムは出発したのです。ここに信仰におけるリスクを考える上で重要な視点が提示されているのです。

2013年10月13日「栄光のイエス・キリスト」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書17章1~8節

説教要旨:
今日の聖書の箇所は、イエスが高い山で光輝く栄光の姿に変わるという私たちには理解できないことが描かれています。
これは一体何を意味しているのでしょうか。
この意味を考える上で私たちは前の章を見る必要があります。
16章でペトロの「イエスはメシアで、生ける神の子です」という信仰告白があります。
それを受けてイエスは自らの十字架と復活を予告されます。さらに16章27節では再臨のことも予告されています。つまりイエスはメシア=救い主であると告白することは、神の子としてのキリストの十字架と復活と再臨を受け入れていく必要があることを告げているのです。
そして十字架も復活も再臨もすべて栄光に満ちた姿であることを今日の箇所は告げているのです。
ペトロが否定した十字架においてさえ、それは栄光の姿であることということです。
要するに、イエス・キリストは昨日も今日も明日も変わりなく、栄光に満ちた神の子であるということです。
それゆえに5節では「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」との御声が弟子たちに発せられたのです。これに聞けとは、イエス・キリストに聞けということで、それはキリストの言葉と行いを倣えということです。モーセでもエリヤでもないのです。
私たちはキリストの言葉を聞き、行うことで、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていくのです」(第2コリント、3章18節)。つまり聖化されていくのです。
聖化が行われるには、私たちは御言葉を正しく聞かねばなりません。正しく聞かれないならば、御心に適った行いもできません。正しく聞かれたならば、そこには必ず聖霊が働いていますから、主のご意志を行う者へと造り変えられるのです。イエス・キリストの栄光を聖霊において私たちは受け、日々キリストと同じ姿に造り変えられていくのです。
その完成を私たちはキリストの再臨のときに受けるのです。

2013年09月29日「最初と最後の言葉」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:創世記1章1~3節、ヨハネの黙示録1章1~8節

説教要旨:
私たちの人生の初め(誕生)と終わり(死)は自分では決定できないものです。聖書は生と死は神の御手のうちにあると考えています。
またその誕生と死を、自身が関係する人たちがどう見ているのか、ということも決定できないことであります。
では神はどう見ているのでしょうか。
創世記によれば、1章の天地創造において神はまず「光あれ」という言葉を発せられ、この世界が光に満ちるようにと祝福されています。そして創造の6日目に人間を造られた後、「極めて良かった」と言われました。ですから人間の命は呪われたものではなく、良いものであるのです。
神は私たちの誕生を良きものとして見られているのです。人がその人の誕生を歓迎していない場合でも、神にあっては良きものであるのです。
それが人間の罪の結果、光に満ちた世界であるべきところに闇が生じてしまうのです。
それはまた私たちの誕生後の人生において、私たちが犯す罪によって闇が生じ、決して良い人生とは見えないという結果をもたらすのです。
もし私たちの人生が良きものとして見えうるとするなら、それは罪が贖われ、ゆるされるということがなければならないのです。
神は御子イエス・キリストの十字架を通して、罪深い私たちの人生を良きものとされます。
世間の人が見て、決して良き人生とは見ない人生であっても、神にあっては、確かに良き人生であるのです。
世間の人が良き人生と見ていても、もしその人がイエス・キリストによる罪の贖いを受けていないなら、本当はその人の人生は良き人生とは言えないのです。
では終わり(死)においてはどうでしょうか。キリストの罪の贖いとゆるしを受けているなら、その死もまた呪われるものでは決してなく、良きものであるのです。
そしてキリストの再臨のとき、つまり終末のときですが、そのとき私たちは眠りから覚め、復活し、神の御前に立たねばなりません。
そのときも永遠の命をいただくという祝福のうちに私たちは、神の永遠の御国へと入ることができます。
すべての罪を贖う十字架の主イエス・キリストが私たちの弁護者として私たちのために神にとりなしてくださるからであります。
その御国においては、もはや闇は一切ありません。神が私たちと共に住まわれる光に満ちた世界です。
神の最初の言葉「光あれ」という言葉が完全に実現するのです。

2013年09月22日「主に信頼する者」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エレミヤ書17章5~13節

説教要旨:
主に信頼する人と人間に信頼する人とが対比的に述べられています。
私たちの現実は大体その中間的な位置にあるのではないのでしょうか。
主に信頼すること50パーセント、人に信頼すること50パーセントとか、その割合は場合によって違うでしょうが、信頼において神か人かの折衷的なところがあるのではないでしょうか。
しかしそういう人は実は呪われた人であると厳しく言われているのです。
それはまたイスラエルの民の信仰の形でもありました。
彼らは主なる神を礼拝することを捨てたわけではありませんでした。
彼らは主なる神と並んで偶像を拝んだのです。私たちは人を偶像神として拝むことはないかもしれませんが、信頼するよりどころという点で似たり寄ったりであります。
私たちの人生において、毎日私たちは決断を要求されます。その決断をなすとき、何を根拠にして決めていくのかが問題となります。決める根拠が不確かでは私たちの歩みもまた不確かなものになります。誤った道を行くことにもなりかねません。
私たちは皆、人生において信頼に足る確かな地図を必要としているのです。
その地図は聖書です。神の御言葉です。
御言葉に信頼し、それに従うことが大切です。もっと言えば、御言葉そのものであるイエス・キリストに信頼し、キリストに従うことです。
そのような人は8節にあるように実を結びことができるのです。
なぜなら彼は生ける水の源であるイエス・キリストに根ざして生きているからです。

2013年09月15日「御国を来たらせたまえ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ゼカリヤ書8章1~8節

説教要旨:
捕囚のイスラエルの民がカナンの地へ帰還してから20年ほどたったときに、預言者ゼカリヤが民に告げました。御国がやってくることを。
それはこの地上でのことです。広場に幼い子から高齢者までさまざまな人々が集い、笑い声で満たされるときが来るとの預言です。
当時のイスラエルはバビロニアによって破壊された神殿はまだ完成しておらず、国土も荒廃から立ち直っていない状態でした。人々は日々の生活に追われ、厳しい毎日を送っていたのです。
広場に憩うことはなかなかできない状態であったのです。
そんな中にあってゼカリアが告げた預言は民を励ますものでありました。
私たちは神の御国と聞くと、天国を思い浮かべてしまいがちにありますが、決してそうではないのです。
主が私たちに祈るように教えられた「主の祈り」において「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と私たちは祈ります。
それは御心がこの地上で実現することは主の願うところでもあることを示しています。
今日の箇所で御国の一つのイメージが描かれています。それは年齢差、世代を超えているということです。
ある特定の年齢層だけが御国の構成員ではないのです。
そしてそこは笑いの満ちるところです。誰もがそこに招かれ、誰もが孤独になることなく、疎外されることなくそこに楽しく居ることができるところです。
それは決して天においてだけ起こることではなく、この地上においても起こることが主の御旨です。
完全な形においては罪ある人間には無理ですが、そのような状態に近づけることは主が私たちに期待するところであります。私たちはそのような方向へと歩み出すとき、主は御助けを私たちに与え力添えしてくれます。この主の御力なしでは私たちには不可能です。ですから私たちは「御国を来たらせたまえ」と祈ることが必要となるのです。主は祈りにこたえ、御国の前進をこの地上にあって図ってくださるのです。

2013年09月08日「一難去って、また一難」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:列王記上17章17~24節

説教要旨:
神の助けにより、やもめとその息子、また預言者エリヤは飢餓の危機から救われました。
しかしそのあと、より深刻な危機が訪れます。それはやもめの息子が重い病気にかかり、死んでしまうということが起こるのです。一難去って、また一難であります。
このようなことは私たちの人生においても起こります。一難がやっと去ったと思ったとたん、また新たな一難に襲われるということは多々あることです。やもめはそれに直面します。
やもめは息子の死を前にして、エリヤに「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。
あなたはわたしの罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と詰問します。
エリヤにとってぐさりと胸を刺す言葉です。やもめは、息子の死は自分が犯した罪ゆえに起こったと見ているのです。その罪を思い起こさせるために、エリヤが来たのかと、息子の死というやるせなさをエリヤにぶつけるのです。やもめは因果応報の考えに立っています。
エリヤはやもめの問いに直接的には答えていません。エリヤは因果応報の考えを断固として退けていません。また肯定もしていません。エリヤ自身がまだ因果応報の考えから解き放たれていないからではないのでしょうか。因果応報思想にまだ囚われているエリヤとそこから解き放たれたいという思いのエリヤが葛藤しています。
葛藤しつつ、エリヤは今息子が生き返ることをただ願うばかりです。
神は、息子を生き返らすということで、やもめを、またエリヤを因果応報の考えから解き放っていきます。
決して息子の死は、やもめが重い罪を犯したから起こったのではないのだという神からの宣言であります。
私たちは新約聖書において、決定的に因果応報が断ち切られていることを見ることができます。それはイエス・キリストにおいて現されました。
罪なき神の子イエス・キリストが十字架でなぜ死ななければならないのか。因果応報の考えでは、イエスが死に価する罪を犯したがゆえであるとなります。しかし神の子イエス・キリストは罪なき御方です。
その罪なき御方が十字架で死ぬということは因果応報の考えでは理解できないことであります。
十字架は因果応報思想を打ち破っているのです。人の苦難は人が犯した罪ゆえであるという因果応報思想に代わり、苦難にこそ、神の愛が現れるという逆説を十字架は示しているのです。

2013年09月01日「共に生かされるには」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:列王記上17章1~16節

説教要旨:
預言者エリヤは旱魃が来ることをアハブ王に告げます。
主は裁きをイスラエルに用意するのです。
なぜ裁こうと主はされるのでしょうか。それはイスラエルの偶像礼拝が原因です。
偶像礼拝の罪を旱魃というしるしを通して、悔い改めさすためであります。
しかし旱魃を預言するエリヤをアハブ王は悔い改めるどころか、迫害します。そこでエリヤは主の命じるとおりケリトの川のほとりに身を寄せることとなります。そこで烏がエリヤを養うこととなります。
もし烏に養われるなどということをエリヤが信じることができなかったなら、あとの出来事は起こらなかったかでしょう。エリヤは主の御言葉に素直に従うことで話は前進してまいります。
先へと前進する過程で、川の水が涸れるということが起こります。ここでエリヤが命の危機に陥ります。
主はエリヤの命を救うために、一人のやもめを用います。主は異邦人のやもめのところに行けと言われます。
エリヤは素直に主の言葉に従います。ここでももしエリヤが主の言葉に従わなかったなら、エリヤの命は危なくなっていたことでしょう。
やもめは夫をなくし、毎日困窮の中、息子と一緒に生活をしています。
そこにさらに旱魃による飢饉が襲うのであります。蓄えていた食べ物が日々なくなっていきます。命の糧が日々少なくなっていくのです。そしてついに最後の食事分しか残っていない状態になりました。
そんなところにエリヤが訪れます。
主はエリヤを通して、パンと油を尽きさせることはしないと約束されるのです。
その結果、やもめとその息子、エリヤは共に命を救われるということになるのです。
エリヤがもし主の言葉に従がわなければ、異邦人のやもめとその息子の命、またエリヤの命も失われていたことでしょう。
エリヤが主の言葉に従ったがゆえに、3人は共に命を救われたのです。
主の御言葉こそが私たちの命の支えであります。私たちが共に生かされるために、私たちは主の御言葉を必要としております。
そして私たちが主の御言葉に従う時、主は偉大な御業を現されるということを今日の聖書の箇所から学びたい。

2013年08月11日「真の神殿」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書2章13~22節

説教要旨:
イエスは今日の箇所で神殿信仰を批判をしています。
単に神殿を商売の家としてはいけないと批判しているだけではありません。
エルサレム神殿という特定の場所に神が住むのではないことを告げています。
神は普遍的にどこにでも住まわれる御方であることを言わんとしています。
それを特定の場に神を閉じ込め、そこで商売をして儲けるなどもってのほかであるのです。
そんな神殿とは違う神殿をイエスは説いています。
イエスが「三日で建て直してみせる」と言われた神殿とは「ご自分の体のことだった」のです。
つまりキリストご自身が神殿であるのです。
キリストご自身は聖霊においてどこにでも住まわれる御方です。
キリストの名によって招かれ、人々が集うところはすべて神殿であります。
目には見えないけれども、そこには確かに霊的な神の家があるのです。
私たちはとかく目に見える建物を伴った教会を「キリストのからだ」として考えがちになりますが、そうではなくイエスが言われるのは目には見えない霊的な神殿が教会であるのです。
外的な形が伴わなくても、人々がキリストの名によって集うているなら、場所にかかわらずキリストが聖霊において臨在しますし、キリストの恵みを私たちは受けることができるのです。
世界では、目に見える外的形を伴った神殿が多く造られています。そしてそこに神ないし神々が住むと考えられています。また多くの神殿が民族主義ないしは国家主義に利用されてきました。イエスはそのような神殿ではなく、
イエス・キリストご自身が神殿そのものであり、その神殿においては民族主義や国家主義は無縁であり、どの民族もどの国民も招かれ、神と真に出会うことができるのだと言われているのです。

2013年08月04日「平和の基礎キリスト」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章11~22節

説教要旨:
14節「キリストは私たちの平和であります」と言われています。
聖書では、あるときは平和、またあるときは平安と訳されていますが、大体は同じ言葉が使用されています。それだけ広い視野をもった言葉であるということです。
平安と言う言葉を聞いて思うのが、不安であります。不安があると、平安はありません。
今日の箇所において、キリストは敵意という隔ての壁を取り壊し、十字架によって敵意を滅ぼされましたと言われています。
敵意というものは私たちに不安な気持ちを抱かせます。
ある相手に対して敵意を抱くということは、相手から何らかの害を加えられるのではないかという不安です。
相手に対してとても平安でいることはできません。
不安を取り除こうとすると、相手に対して身構えます。相手が攻撃をしかけてきても、その攻撃を跳ね返すだけの力をこちらはもとうとします。相手がそれに気付くとき、相手もまたこちらの攻撃に対して、負けないだけの力をもとうとするのです。そのようなことが連鎖的に起こり、事態はますます悪化していくのです。敵意は深刻化するのです。不安は増すのです。
世界には、これに似たことが多くあります。また私たちの身の回りにおいても多く見られることです。
パウロが生きた当時は、ユダヤ人と異邦人という隔ての壁がありました。お互い仲が悪かったのです。
キリストはこの世にある様々な敵意という隔ての壁を十字架によって取り壊されたのです。
十字架によってということは、敵意を取り除くのは、非暴力によることを告げています。
十字架に現れた神の愛によることを告げているのです。武力という力ではなく、愛という力によって敵意を克服することが私たちには求められています。
ではその愛の力を受けるにはどうしたらいいのでしょうか。パウロはローマの信徒への手紙5章5節で「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と言っています。
私たちは祈りにおいて聖霊の注ぎを祈るのです。すると必ず平和の主イエス・キリストが聖霊において私たちの内に宿り、私たちをキリストの平和の使者として用いてくださるのです。

2013年07月28日「キリストの香り」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二、2章12~17節

説教要旨:
12節「不安の心を抱いたまま」とパウロは心情を吐露しています。
パウロもまた私たち同様に不安を抱くことがあったということは慰めであります。
神さまにすべてをゆだねれば、不安はなくなるのではないのかと思いますが、現実的にはそうはならないのが私たちではないでしょうか。パウロもまたそうでありました。
ただここでのパウロの不安は、福音に関わること、教会に関わることでの不安であります。
パウロが説いた福音とは違うものに心を奪われ、パウロを批判をしているコリントの教会の人たちがテトスの来訪によって、悔い改め、和解をすることをパウロは願っているのですが、本当に悔い改めるのだろうかと不安で一杯なのがパウロであります。
しかしその不安も消え去ります。コリントの教会の人たちが悔い改めたのです。
パウロはそれをキリストの勝利と言います。パウロの勝利でもなければ、テトスの勝利でもありません。
神が勝利されたのです。神の勝利であるから、キリストの香りとなるのです。
私たちは神によって造られたということにおいて、皆キリストの香りを放つように期待されています。
しかしそれにもかかわらず神に背き、神に逆らうことで死から死に至る香りを放ってしまうことになるのです。
また勝利を自分の手柄にようにして誇るなら、それはキリストの香りとはなっていきません。
パウロはコリントの信徒への手紙一、1章23節で「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」と申しています。
要するにパウロにとって、キリストの香りを放つとは、自分を売り込むことではなく十字架につけられたキリストの宣教のことであります。キリストを宣べ伝えるからキリストの勝利もあり、キリストの良い香りも放たれるのです。

2013年07月21日「主を誇りとする」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙10章7~18節

説教要旨:
パウロは7節で「あなたがたは、うわべのことだけを見ています」と言っています。
うわべだけでパウロを見る人がコリントの教会の中にはいたのです。
その結果パウロ批判が起こったのです。その批判に対してパウロは批判者を打ち倒す、抹殺するということではなく、造り上げるという方向で臨みます。
どのように造り上げるのでしょうか。それは「主を誇る」信仰者として造り上げるということです。
主を誇ることのない信仰は罪人としての自分を相対化することができず、自己義認、自己絶対化という罪を犯すことになります。
主から自分がどう見られているかが信仰において重要なのであり、自分による自己評価、自分による他者評価に囚われている限り、主を誇るという信仰は生まれないのです。
主を誇るということは主を中心にして生きるということを意味します。
誇るものが主ではなく、他のものであるとき、主を中心にして生きる信仰とはなりません。
主を中心にして生きているのか、それとも自分を中心にして生きているのか、パウロはコリントの教会の人たちだけでなく、私たちにも問いかけているのです。

2013年07月14日「イエスの命」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙4章7~18節

説教要旨:
10節でパウロは「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」と言っています。これはイエスの十字架の死がパウロの生きる根拠であり、その死によってパウロは新しい命を与えられたということを言っているのです。新しい命とは復活のイエス・キリストの命であります。
パウロのうちには復活のキリストの命が働いているということです。
そのパウロのうちにあるキリストの復活の命が他者にも働いて、他者を生かすという働きになっていくということを11節の言葉「わたしたちの内には死が働き、あなたがたのうちには命が働いていることになります」で言い表しているのです。キリストの命はパウロ一人のところにだけに働くのではなく、パウロを経て多くの人を生かすように働くのです。
つまりパウロがキリストの福音、十字架を語ることで、福音を信じ、受け入れる人が起こされ、その人のうちにキリストの命が働いていく。
そのようにしてキリストの命に皆結ばれていくのです。
でもキリストの命に結ばれても、私たちは皆いつかは肉体の死を迎えます。「外なる人」は衰え、滅びるのです。
しかし「内なる人」、つまり「キリストの命に生かされている者」は日々新たにされていくのです。
私たちの肉体を生かす細胞は肉体の死とともに死を迎えます。しかし私たちの魂を生かすキリストの命は
日々私たちを新たに造りかえていくのです。その過程のゴールには永遠の命の完成が待ち受けているのです。
その造りかえられる姿は私たちの目には見えません。見えないけれども、復活され、今も生きて働いているキリストの命がそうしているのであるから、必ずそれは成就の時、完成の時を迎えるのです。

2013年07月07日「まことの平安」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書44章6~23節

説教要旨:
22節「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」と言われています。
「贖った」と過去形で訳されていますが、実際には未来におけるキリストの贖いのことも含め言っているのです。イスラエルの民はバビロン捕囚において偶像礼拝という過去の罪を悔い改めました。
偶像礼拝ゆえに国が滅んでしまったことを悔いました。そのことを神は良しとされ、罪は贖われたのです。
しかし、それで故郷であるカナンの地に帰れば、平安を得ることができるかとなると、そうではないのです。その後のイスラエルの歴史を見れば、そのことはいえます。
彼らはまことの平安を得ることはできなかったのです。
イザヤが言う「わたしはあなたを贖った」という深い意味はキリストにあります。
私たちはこの地上のいかなる地においても、平安を得ることはできないのです。
どんなに素晴らしい故郷であったとしても、そこに真の平安はありません。
ましてや偶像などにはありません。イスラエルの過去の歴史は偶像礼拝の歴史でもあります。
民は偶像にまやかしの平安を見出していました。でもそこには心からの平安はありませんでした。
神はイザヤを通してまことの平安の道を示します。それはキリストです。
私たちはキリストにこそ平安を見出すべきであるのです。
キリストが私たちのすべての罪を贖う御方であるからです。
私たちの不安の根源には神との関係があります。神との関係が不和であるとき、私たちは平安を得ることはできません。言い換えれば罪があるとき、平安がないのです。
私たちと神とを隔てる罪が神との和解を邪魔しているのです。この罪が贖われなければ、処分されなければ、処分され神との和解が果たされなければ、私たちには平安は訪れないのです。その罪を贖う御方、和解させる御方がイエス・キリストであるのです。
私たちはこのイエス・キリストを通してしか本当の平安を得ることはできないのです。

2013年06月23日「失うことで得る恵み」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコ福音書1章16~20節、フィリピの信徒への手紙3章5~11節

説教要旨:
聖書は、逆説(パラドックス)の書であります。イエスの弟子のペトロもパウロも捨てること(失うこと)でイエス・キリストを得た人です。
失うことで得るという逆説に生きる生き方をしたのがペトロであり、パウロであります。
ペトロはイエスの「我に従え」との御声に従いました。イエスに従うために網を捨てました。
またパウロもキリストに出会うまで自分の誇りとしていたものを捨てました。
捨てることで二人はイエス・キリストを得たのです。
私たちもイエスに従うには何かを捨てる必要があるのです。
私たちは捨てることよりも持つこと(所有すること)を求めがちであります。
現代社会は持つことが大きな力となって私たちを襲います。
経済成長ということはある意味「持つこと」の追求であります。
しかし聖書はそれとは違う生き方があることを示しています。
約束の地カナン定着後、イスラエルの民はバアルの神の誘惑を受けます。
そして誘惑に負け、バアル礼拝を始めます。そこに堕落が待っていました。
その行く着く先は国の滅亡でありました。
バアル神は持つことを追求する神であります。
私たちもまたこのバアル的力に弱いのです。
しかしイエスはバアル神を求める生き方を断念する、捨てることを求めます。
捨ててこそ真に主イエスと出会うことができることを告げています。
マタイ福音書19章に登場してくる「富める青年」は富を捨てることができずイエスのもとから去りました。
人によってそれぞれ捨てるものは違うでしょうが、何かを捨てること(失うこと)で私たちはイエス・キリストと出会うのです。
そしてキリストを得ます。キリストを得て、キリストに従うとき、神さまはさまざまな恵みを私たちにくださるのです。

2013年06月16日「神の愛の器」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙9章19~29節

説教要旨:
神は一体どのような目的をもって私たちを召し出しておられるのでしょうか。
24節では「神は私たちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」と言われています。神は、私たちが神の憐れみの器となることを望まれておられます。私たちはすでに憐れみを盛る器として私たちを造られています。
それにふさわしく生きることが求められているのですが、私たちは憐れみとは違うものを盛ってしまうことをしばしばしてしまうのです。
たとえば自己義認という罪です。自分は正しい、自分には罪がないという傲慢の罪を盛ることをしてしまうのです。
そうなると神が望まれる憐れみの器とはならなくなるのです。
私たちは本来なら罪ゆえに神の怒りを盛る器でしかありません。
にもかかわらず神はイエス・キリストの十字架の死により、私たちの罪を贖い、ゆるしてくださいました。
そのことで私たちは神の憐れみの器として新たに造られたのです。神の怒りの器は十字架で打ち砕かれたのです。
新たに造られた憐れみの器にふさわしく生きるには、自己義認の生き方、自己栄化の生き方を否定して生きることです。
ミカ書6章8節には「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と言われています。
神の憐れみの器として生きることを要約すればミカ書の上記の言葉になるといえます。
私たちはともすれば神の憐れみ以外のいろいろなものを盛ることをします。それらのものに隠れて憐れみが見えなくなることもあります。
それにもかかわらず神は器を壊すことはなさらず、なおも憐れみを盛る器にふさわしく歩むことを忍耐強く望んでおられます。
それはキリストの十字架ゆえであります。十字架に現れた神の愛に応え、その愛に倣う生き方をしてまいりたいと思います。

2013年06月02日「キリストの力に頼る」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書11章14~23節

説教要旨:
イエスは今日の箇所で悪霊を追い出しています。他の箇所でも悪霊の追い出しをしており、このことからイエスの宣教において大事な一部をなしていたといえます。
では一体悪霊とは一体何なのでしょうか。悪霊の対極にあるのが聖書では聖霊です。
悪霊とは何かと問うとき、聖霊とは何かかが分かれば、答えは出てきます。
今日の聖書の箇所との関係においては、自由がキーポイントです。
聖霊の臨在するところ自由があります(第2コリント、3章17節)。言い換えれば、自由のないところには聖霊が臨在しないのです。悪霊は人間から自由を奪う働きをするのです。
たとえば、ナチス時代のドイツにおいて、人々の自由は奪われました。
悪霊に支配されたかのようにドイツ国民はヒットラーに酔い、自分で思考し、判断することを停止し、ナチスを支持し、その結果心の自由を失いました。秘密警察による監視体制のもと、人々から様々な自由が奪われたのです。
自由だけでなく、人間の尊厳も奪われました。ユダヤ人はじめマイノリティーの人権は全く無視されたのです。
イエスはそのような悪霊の支配から私たち人間を解放するために私たちのところへとやってこられたのです。
それだけがやってきた目的ではありませんが、宣教目的の一つです。
今日の箇所で「口の利けない人」が登場していますが、この人は何らかの病気で口が利けないということではなく、悪霊がこの人の口を開かせないように働いていたから口が利けなくなっていたのです。つまりこの人の自由を奪っていたのです。ではなぜ悪霊はそのようにさせていたのでしょうか。
悪霊は義なる者を不義なる者として告発する働きをします。その究極の例がイエス・キリストの告発です。
悪霊はファリサイ派や律法学者たちを通して、イエスを不義なる者として告発しました。
義なるイエスが不義なる者として告発を受けたのです。
口の利けない人も不義なる者として悪霊の告発を受けていたといえます。
告発に対して、申し開きが許可されるべきであるのに、悪霊はそのことを許さなかったのです。
イエスはその理不尽さを打ち破ります。悪霊をその人から追い出すのです。
口の利けない人は利けるようになり、自由の身とされたのです。人間としての尊厳も回復させられたのです。
そしてイエスは宣言されます。ここに神の国(神の支配)は来ていると。
イエスが説いた「神の国」とは、言い換えれば「自由の王国」であるともいえるのです。
イエスは「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書8章32節)といわれました。
真理とはイエス・キリストです。私たちは悪霊の支配の下ではなく、キリストの支配の下生きたい。
そこにこそ私たちの本当の自由があることを覚えたい。

2013年05月26日「新しい命に生きる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙6章1~14節

説教要旨:
今日の聖書の箇所から、パウロが説いてきた福音を誤解して理解をする人がローマの教会にいたということが分かります。
それは罪のゆるしがあるのだから、罪を犯してもいいのだ、むしろ罪を犯すことで罪のゆるしの恵みを受けるのだから、罪を犯そうではないかと考える人がいたということです。
パウロはそれは違うと言います。罪の中にとどまるべきではないと言うのです。
洗礼によってキリストに結ばれている者は罪の奴隷から解放されたはずではないかと言うのです。
それが罪の中に留まり続けるなら、依然として罪の奴隷のままのではないのかと言うのです。
確かにキリストは十字架で私たちの身代わりになって、罪を負い、罪をゆるしてくださる、だからといって、罪を犯すことに鈍感であっていいことにはならないのです。犯した罪の罪責を覚えなくていいということにはならないのです。罪を犯すことに鈍感である、罪責を感じないということは古い自分のままの姿であります。十字架に古い自分を死なせていないのです。
十字架に古い自分を死なせていないということはまだ罪の奴隷から解放されていないことになります。
古い自分を十字架につけてこそ、罪の奴隷から解放された新しい命があるのです。
罪の奴隷のままでは、まだ新しい命に生きていることにはなりません。
私たちが新しい命に生きるためには、十字架に古い自分が死ぬことが大切なことであります。
死んでこそ新しい命であります。
十字架に死んだなら、復活のキリストと共に新しい命に生きる者として神の御心に従うことを願うはずではないのでしょうか。
罪の中にとどまろうなどとは考えないのではないのでしょうか。

2013年05月19日「聖霊降臨の意味すること」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録2章1~13節

説教要旨:
今日はペンテコステ(聖霊降臨)日であります。
私たちはペンテコステにおいて見なければならないことは、1~4節の超自然的現象でなく、5節以下で起こっている福音宣教に関することであります。
イエスの弟子たちがギリシャ語で福音宣教を始めたということです。
イエスの弟子たちはギリシャ語など話せなかったが、聖霊を受けてから突如ギリシャ語を話すことができるようになったというのではありません。
当時のローマ帝国の共通語はギリシャ語でありました。そしてそのギリシャ語は地域、地域によって異なる訛りを伴ったものでありました。そのことが6節の「自分の故郷の言葉が話されているのを聞いた」や8節の「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と記されていることです。訛りがあってもギリシャ語には違いはないのです。
イエスの弟子たちもまたガリラヤ訛りのギリシャ語を話すことができたのであります。
そのギリシャ語を用いて弟子たちは神の偉大な業を語ったのです。
しかし異様な大きな音を聞き、集まってきた人々は、ガリラヤ人がこのようにギリシャ語を話すことを目撃し、驚き怪しんだのであります。なぜでしょうか。それはガリラヤ人への偏見が背後にあるからです。
ガリラヤはユダヤにおいて辺境の地であります。田舎の中の田舎といえるような地であります。
そんなところの出身者がどうしてギリシャ語など話せるはずがあろうかという思いがあったからです。
それが実際に話している。驚き、とまどいを覚えるのも無理からぬことであります。
ヘブライ語ではなく、ギリシャ語で神の偉大な業が語られることがペンテコステに起こったということは伝道における一つの転換点がそこで到来したということを告げています。
それは異邦人への伝道の道が開かれたということです。
ローマ帝国全体へと福音が宣べ伝えられる端緒が切り開かれたことを意味しているのです。
ヘブライ語ではユダヤ人しか分かりません。そうではなくギリシャ語がペンテコステにおいて用いられたことは世界宣教への道が始まったとも言えます。
いろいろな地域に住む人たちが福音を理解するために、それぞれの地域で話されている言語が用いられていくことは大切なことであります。ローマ帝国においてはギリシャ語であります。
それ以外の地域においてはまた別の言語を用いねばならないでしょう。
実際他の地域においてはギリシャ語とは違う言語で福音が宣べ伝えられていったのであります。
今や聖書は世界のどの地域に住む人でも理解できる言語に訳されています。
そして福音を信じる人が日々起こされています。
そういう意味で2000年前に注がれた聖霊は今も注がれていると言えるのです。

2013年05月12日「母の愛と神の愛」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:創世記21章9~21節

説教要旨:
今日の箇所には二人の母親が登場しています。
一人はアブラハムの妻サラ、もう一人は女奴隷のハガルです。
神はアブラハムとサラの間にこどもを授けることを約束しました。
ところがこの約束がなかなか実現せず、サラは違う方法でこどもを授かることを考えます。それは女奴隷ハガルとアブラハムの間で生まれるこどもが約束の子として神は意味されているのではないのかと考え、それをアブラハムの同意を得て実行することになります。そしてイシュマエルという男の子が生まれます。
しかしその後しばらくしてサラとアブラハムの間にもイサクという男の子が生まれるということが起こるのです。
そこで問題が起こります。イシュマエルがイサクをいじめる事が起こります。
サラはアブラハムに「あの女とあの子を追い出してください」と乞うのです。母親のエゴがそういう言葉をもたらすのです。
アブラハムは苦しますが、ついにサラに同意し、二人を追い出すことにします。
パンと水の革袋を与え、立ち去らせるのです。ハガルとイシュマエルには行くところはありません。
荒野へと二人は追いやられます。荒野は生きていくには厳しい環境です。
与えられた革袋の水もなくなります。荒野で水がなくなるということは命の危機です。
絶望の中、二人に死が迫ります。そんなとき、神はハガルとイシュマエルの泣き声を聞かれ命の水を用意するのです。井戸です。それはすでにあったものですが、ハガルには見えていなかったのです。
私たちは絶望の中にあるとき、周りの状況が見えなくなります。一切が暗闇であるかのように感じてしまいます。
ハガルはそういう状態でした。
神はそんなハガルに対して目を開かれます。目を開き、身近にある井戸を発見さすのです。
このようにしてハガルとイシュマエルの命は救われました。
母親の愛は偉大ですが、サラのイサクを愛する姿から限界をもったものであることが分かります。
エゴが内に含まれていることが分かります。またハガルのイシュマエルに対する献身的な愛も、限界をもったものであることが分かります。ハガルは愛するイシュマエルの命の危機に、ただ泣くしかありませんでした。
人間の愛のエゴと限界を突破していく御方が神であることを今日の箇所から学びたい。

2013年05月05日「聖霊の時の始まり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録1章3~9節

説教要旨:
クリスチャンの歴史認識は世俗の歴史認識とは異なる面があります。
それは終末信仰:キリストの再臨信仰に由来します。
今私たちが生きている時代は中間時といえるものであり、つまりそれはキリストの十字架と復活、そしてキリストの再臨との間にある時であるということです。そしてこの世界は闇から光の世界に移されているということです。どんなに闇が深く見えようが、光が消え去ることはないのが中間時であります。言い換えれば、キリストの光のもとにあるのが中間時であります。
しかしキリストは父なる神のもとへと昇天され、この世界はキリスト不在であるかのように思われますが、そうではなく、キリストは聖霊において臨在しているのです。
そのときがすでに始まっているのです。聖霊のときが中間時の特徴であります。
聖霊においてキリストはこの世界を神の御国の成就へと導いておられるのです。
神の御国はキリストの到来とともに始まっています。しかしその完成はキリストの再臨のときを待たねばならないのです。そのときを私たちは知ることはできません。
その時は分からないが、いつか必ず来る再臨のときまでの中間時が聖霊の時代、聖霊のときであります。
しかしイエスの弟子たちは、このことが理解できていませんでした。
キリストが復活されたからには、御国の完成はすぐにできるはずであると期待したのです。
そして御国はこの地上において完成されると誤解していたのです。
この地上で完成された暁には、自分たちはそれ相当の地位につけるはずであると思っていたのです。
しかし神の御国はこの世の国の基準でもって測れるものではありません。
あくまで霊的な国です。目には見えない霊的な国が神の国です。
キリストがローマ帝国を倒して、自ら王となり、自分たちを大臣にすることを期待していたのですが、キリストはこの世的な制度をもった国を説いたのではなかったのです。
聖霊が支配する国、聖霊の支配が行われる場が神の国です。
弟子たちに聖霊を注ぐことで、聖霊の支配が行われるときが開始されることをイエスは弟子たちに諭したのでした。私たちはこの聖霊の時を生きています。
ゆえにますます聖霊の注ぎを祈り求める者でありたい。私たちに聖霊が注がれれば注がれるほど、この世界に対する聖霊の支配は強まり、広がり、御国は前進するのです。

2013年04月21日「ダビデのダンス」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:サムエル記下6章1~23節

説教要旨:
今日の聖書の箇所でダビデ王は喜び踊っています。ただその踊り方が王としてふさわしくないと妻のミカルはダビデを批判しています。
ダビデはその批判を受け入れつつも、自らの行為は主の御前にある行為であることを告げてます。また自分の行為は民とともにあることを告げます。王として威厳をもって高みから民と接する者ではないことを告げるのです。
ダビデにおいては、主の御前が問題です。周囲の人の目が問題ではありません。
世間がイメージしている王(気品があって威風堂々としているイメージ)とは違っても、そのイメージを壊すような踊りであっても、それが主の御前にあって出てきた行為であるなら、自分は気にしないというのがダビデの考えです。
妻ミカルは世間体を気にしました。ミカルはダビデが王としてふさわしいと世間が思うような行動を取ることを願いました。
そしてふさわしくない行動にダビデが出たとき、それも裸で踊ることをしたとき、ダビデを蔑むことをしたのです。
このミカルの行動に対して神は否を言われたのです。
ダビデは世間が自分をどう見るかということに左右されて行動しませんでした。
神の御前でどうであるかがダビデの関心でした。
その行為、踊りを神は受け入れました。神はミカルを裁かれましたが、ダビデの踊りに関しては裁いていません。神の目からすれば、ダビデの踊りは王にふさわしいものであったからです。
私たちはどうでしょうか。周囲の目によって行動が左右されてはいないでしょうか。
それとも神によって行動が左右されているのでしょうか。

2013年04月14日「キリストに結ばれて」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二、5章16~21節

説教要旨:
17節「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とありますが、キリストと結ばれるとはどういうことでしょうか。また結ばれるとどうして新しく創造されるのでしょうか。
新しいものでありますから、古いものがあるはずです。古いものとは一体何を指しているのでしょうか。
それは古い人間です。古い型の人間です。神との和解がない人間です。神を敵としている人間です。
敵とまでしていなくても、不仲の関係にある人間です。
神が敵であれ、不仲の存在としてあれ、そのような存在に対して私たちは弱さを見せることをしません。
弱さを見せれば、攻撃を受けるのではないかとの恐れを抱きます。そこに平安はありません。
神が裁きの神だけであるなら、私たちはそのような心的現象をもつことでしょう。
しかし神は愛なる神であります。主イエスの十字架を通して、そのことを示されました。
私たちはこの十字架の主の前にあって、弱さを隠す必要はありません。私たちは主の御前では無防備になっていいのです。
むしろそのことを主は望まれます。自分の強さを見せようと覆っていた鎧などの武器を放棄していいのです。
虚構の強がりを捨て去り、ありのままの自分をさらけ出していくことが大事です。自らの罪ある姿をさらけ出すとき、主の十字架はそれを受け入れ、罪をゆるし、和解をしてくれます。神との和解で私たちはキリストに結ばれます。
そこから私たちの新しい創造が始まるのです。結ばれたキリストを通して聖霊が私たちに注がれます。
この聖霊によって私たちは日々新たに創造されていくのです。自らの力によって新しく創造するのではありません。
ですからキリストに結ばれることがないと私たちの新しい創造は起こらないのです。

2013年04月07日「空しさから充足へ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書21章1~14節

説教要旨:
復活のキリストと出合った弟子たちでありましたが、まだ十字架の方が復活よりも彼らの心を圧倒していました。「主は復活し、生きておられる」という実感がまだ確かなものではありませんでした。空しさが心をまだ支配していました。生の充実感はとてももてる状態ではありませんでした。
そんな中再び復活の主が弟子たちのところに現れます。そのとき弟子たちは夜通し魚を獲っていましたが、一匹も獲ることができませんでした。空しさは増すばかりです。精神的な空しさだけでなく、生きる糧を得ることができないという空しさです。弟子たちは、空腹という肉体的にも空っぽ状態にありました。そのときに主は言われました。「舟の右側に網を打ちなさい」と。その通りにすると魚が一杯獲れたのです。それまで声をかけた人が復活の主であることが分からずにいた弟子ですが、その人が復活の主イエスであることに気付くことになるのです。なぜ気付いたのでしょうか。それはかつて同じようなことがあったからです。
ルカ福音書5章にはその出来事が記されています。その出来事はペトロと他の弟子たちの召命の記事です。弟子としての召命を受ける前に、夜通し漁をしたのに、一匹も獲れなかったという出来事がありました。そのことを主イエスはご覧になり、「沖へ出てもう一度漁をしなさい」といわれたのです。その通りにすると、網が破れそうになるほど獲れたのです。そして「人間をとる漁師になるのだ」と弟子として召されたのでした。そういう忘れることのできない出来事ゆえに、同じことが起こるとすぐに思い出し、主であると分かったのです。さらに主は弟子たちと共に朝の食事をするのです。かつてしたのと同じように主は感謝して、パンと魚を弟子たちに分け与えられたのでした。もう誰もその人が主イエスであることを疑う者はありませんでした。主と共なる食事で肉体的に満たされただけでなく、精神的にも彼らには充足感がありました。主は生きておられるということを今確かに実感したのです。そのとき彼らの空しさは消え去り、内は主の愛で満たされることとなったのです。

2013年03月31日「キリストの墓はどこに」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書24章1~12節

説教要旨:
キリストの遺体が納められた墓の中は空っぽでした。
婦人たちは、天使からキリストは復活したことを告げられます。
彼女らはそのことを弟子たちに報告したのですが、弟子たちは信じることが出来なかったのです。
私たちも復活ということがなかなか信じられない者です。
しかしこのふつうには信じられない復活を世々の教会は信仰の核として大切にしてきました。核でありますからそれを失うと信仰は空洞化してしまいます。その外側にいかにいろいろなものを塗りたくっても、その塗りたくったものでもって、これが信仰ですと主張してみても空しいのです。中身が空洞であるからです。
キリストの遺体がない空っぽの墓ということだけで復活が信じられないならやはりその信仰は中身のないものといえます。墓が空っぽであるのは、誰かが遺体を盗んだからだというようにキリストの復活を否定してみてもそれで信仰が完成されるものではありません。私たちは天使たちの言葉をまた聖書の復活証言を信じることです。復活を信じるのに空っぽの墓で十分ではないですか。
キリストの墓の場所は今日誰もどこにあったと確定できない事柄となっています。
世々の教会はそのことにあまり関心がなかったといえます。
キリストが復活したからこそ、今も生きて働いておられるからこそ墓など関心事ではなかったのではないのでしょうか。もし墓が空っぽでなかったなら、キリストの遺体が依然として納められたままであるなら、今日のようにキリスト教会は存在していなかったことでしょう。
墓が空っぽであったがゆえに弟子たちの心の空洞が、また私たちの心の空洞がよみがえられたキリストによって満たされることになったのではないのでしょうか。

2013年03月24日「最後の晩餐と私たち」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書26章17~35節

説教要旨:
最後の晩餐における弟子たちの姿は私たちと無縁では決してありません。
イエスが弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」といわれた時、ペトロはじめ弟子たちは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったのです。
しかしその後の弟子たちは、イエスを裏切り、見捨てることをするのです。
弟子たちの強がり、虚勢は裏返せば弱さを隠すものです。
彼らにはその意識がなくても、心の奥では弱さが潜んでいるのです。
私たちはともすれば弟子たちと同じように自分の弱さを認めず、強がりを言います。
その結果人を裏切ることもあります。
イエスはそんな私たちの弱さをよくご存知です。
イエスの言葉に対して、強がりなど言わず、沈黙するならまだ罪も軽いでしょうが、彼らは皆そうではなかったのです。
どうしてイエスはそんな彼らを弟子として選んだのでしょうか。
イエスが神の子であるなら、見抜けないはずがなかろうと私たちは思います。
イエスはあえてそんな者を弟子として選ばれたのです。
それは最後の晩餐が意味するところへと私たちを導きます。
弟子たちは何か優れた才能があったから選ばれたのではありません。
人格的に優れていたからでもありません。
皆弱さを隠し、虚勢を張る結果、イエスを裏切る者としてすでに召命の段階で見通されて選ばれているのです。
選びの段階からすでに最後の晩餐が目指されていたといえるのです。
イエスを裏切るほどの罪深い者としてあるにもかかわらず、彼らは皆最後の晩餐にあずかっています。それはどんなに罪深い者も主イエスの十字架の血潮によって罪が贖われるということを示しています。
十字架の恵みはどんな大きな罪よりも大きいのです。
私たちは主の御前にあっては、弱さを隠す必要はありません。
強がりなど言わずに己の弱さを素直に認めればいいのです。
弱さを認めず、強がりを言った弟子たちでさえ、イエスは復活後に彼らの前に現れ、再び彼らを召すのです。なぜならこの時、彼らは皆己の弱さをとことん知った者になっていたからであります。
そのこともイエスは最後の晩餐のとき、すでに知っていたのではないのでしょうか。
それゆえに最後の晩餐を彼らと共にしたのではないのでしょうか。

2013年03月17日「十字架を目の前に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙3章1~6節

説教要旨:
1節で「ああ、物分りの悪いガラテヤの人たち、誰があなたがたを惑わしたのか。
目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言われています。
今は福音から離れてしまっているガラテヤの信徒たちも、かつては主の十字架における贖罪の恵みを信じ、受け入れたのです。
それが律法主義者たちの惑わしで、やはり救われるには割礼も必要なのではないのか、律法も必要ではないのかと考えるようにまでなってしまったのです。特にユダヤ人クリスチャンの間でそのように考えられたのです。
これでは福音から律法主義への逆戻りです。
律法主義者たちは主イエスの兄弟ヤコブの権威を笠に着ていました。
当時においてエルサレム教会の中心人物は主の兄弟ヤコブになっていました。
ヤコブの権威は非常に強くありました。しかし主の兄弟というだけで権威があるのでは、霊的権威とはいえません。肉的な権威、この世的な権威であります。
しかし人間はこの世的な権威に弱いのです。彼らは単に物分りが悪いというだけでなく、この世的な権威に抗するのではなく、この世的権威におもねる形でうまく振舞ったとも言えるのです。
霊によって始まった信仰が今危機に陥れられています。
今肉によって仕上げられようとしています。
私たちもガラテヤの信徒のようになる危険があります。私たちは人に従うよりも神に従うべきであります。
律法主義者は肉的な権威に従いますが、福音に生きる者は霊的権威に従います。
霊的な権威に従い、福音に生きる上で大切なことは、私たちの目の前に十字架のイエス・キリストがいつもはっきりと示されていることが何よりも大切なのです。

2013年03月10日「十字架のもとに立つ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章1~11節

説教要旨:
今日の箇所で、律法学者やファリサイ派の人たちは悪意をもってイエスのところへ姦通の現場で捕らえてきた婦人を連れてきます。そしてイエスを試します。
律法では姦通の罪の女は石で打ち殺せといわれているが、イエスはどう考えるかと彼らは問います。彼らは、イエスが律法の通りに打ち殺せよといえば、日頃愛やゆるしを説いているイエスの姿とは違い矛盾していると問い詰めることができ、またゆるせと言えば、イエスは律法を軽視しているけしからぬ奴であると攻撃できるのです。要するに彼らは女を手段にしてイエスを攻撃批判したいのです。
イエスはそれに対して何も答えず、地面に何かを指で書きます。
この動作はイエスが答えに窮しているからではありません。彼らの悔い改めを待っているのです。
しかし彼らはなおもしつこく問い続けるので、イエスはとうとう「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言われるのです。
この言葉を聞いて、人々は女のもとから去っていきます。それはまたイエスのもとから去っていくことでもあります。
その場に残ったのはイエスと女だけでありました。
ここで注意したいことは、イエスは「罪なき者が石を投げるがよい」と言われているだけであって、投げることのできない者はこの場を立ち去れとは言ってません。しかし人々は立ち去ったのです。どうしてでしょうか。
その場になおもいて、イエスがどうされるのか見ていても良かったのではないでしょうか。しかし彼らはそうはしなかった。
そうしなかった理由が二つあります。
まず第一に、彼らは、自分も確かに罪を犯す存在であるが、姦通のような罪を犯すほど悪い者ではないと思っていたから、女に石を投げることはできないが、またこの場に罪深い女と一緒にいることはできない、自分は女とは違う存在である、一緒にされては困るとの思いから、女のもとから立ち去ったのです。
しかし彼らも女と一緒にイエスのもとに残るべきでありました。彼らも罪人であることには変わりはないからです。
イエスのもとにあって罪のゆるしを女と同様に受けるべきであったのです。
第二に、彼らは神の子としてイエスを見ていませんので、神のみが罪をゆるすことができるとの考えのもと、イエスのもとにとどまり続けることはできなかったのです。イエスから罪のゆるしを受ける気など毛頭なかったからです。
私たち皆は主イエスのもとにとどまり続けることが必要です。罪の軽重を自分の尺度ではかり、自分の罪を他者の罪よりも軽いとみなせば、その他者とは距離を置く、その他者と交わることを避けてしまう。イエスはそんな私たちの罪ある姿を見抜いています。どちらも罪を犯したことにおいて一緒ではないのか。罪の軽重は神が決めることであるのではないのか、それゆえに神のみが罪をゆるす権威をもっているのではないのか。
自分の罪の軽重を自己査定していくことで、結局自己義認に陥っているのではないのか。
私たちは深く反省し、悔い改める必要があるのではないでしょうか。主イエスの十字架のもとに立ち続けることで、私たちはたえずそんな自己義認の罪を悔い改め、また罪のゆるしを主イエスに乞うものでありたい。

2013年03月03日「人知を超える神の平和」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4章4~7節

説教要旨:
パウロは4節で「主において常に喜びなさい」と言います。
常に喜ぶことなどできるのでしょうか。まずできないのではないでしょうか。
ただパウロは「主において」と言っていることに注意したいと思います。
主においてとは、キリストにあってということです。キリストにあってとは、キリストの愛にあってということです。キリストの十字架に現れた神の愛によって、救われた者にとって、いついかなるときであっても、またどんなことが起ころうが、この救われたという事実は変わらないのです。
この事実を覚えるなら、常に喜ぶということは可能となるのです。
主の十字架によって罪が贖われ、赦された者は救いの喜びだけでなく、広い心が伴います。なぜなら自己義認から解き放たれるからです。
自己義認は他者を裁きます。自分は正しく、他者は悪いとみなす傾向を強くもちます。
裁くところに広い心はありません。他者受容の心は閉じられます。
十字架の神の恵みによって救われたがゆえに、自分の力によってではなく、徹頭徹尾神によって義とされたがゆえに、必然的に広い心とならざるをえないのです。
また私たちは思い煩いが多い生活をしていますが、そのことで主において喜ぶ生活から、遠くなります。なぜなら思い煩いゆえに、主イエスを忘れてしまいがちになるからです。
主イエスに思い煩いをゆだねるのではなく、思い煩いを自分で処理しようとするからです。
パウロは「主はすぐ近くにおられます」(5節)と言います。
私たちはすぐ近くにいる主イエスに向かい、求めているものを神に打ち明けることが大切です。
思い煩いを神に打ち明け、神に思い煩いの処理をゆだねることで私たちは思い煩いから解き放たれます。
そしてその結果人知を超える神の平和が訪れるのです。

2013年02月17日「初めの愛に戻る」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1~7節

説教要旨:
1節にある「右の手に7つの星を持つ方、7つの金の燭台の間を歩く方」というのはイエス・キリストを意味しています。
そのイエス・キリストがエフェソ教会の信徒たちがよく忍耐して、偽使徒たちのうそを見抜き、彼らに勝利を収めたことをほめています。しかし一方でイエスは「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」といわれ、戒めています。
確かにコリントの信徒への手紙一、13章にあるように「愛は忍耐強い」ものです。その点でエフェソの人たちは、ほめられていいのですが、愛は忍耐だけではありません。
イエスが批判されている「初めのころの愛」とはどういう愛であるのでしょうか。忍耐を指しているのではないことは、確かです。それは「互いに愛し合う」という愛です。教会内における愛の交わりから離れてしまったということをイエスは言われているのです。
エフェソ教会の創立当初は愛の交わりがあった。しかし今はないのです。なぜそうなってしまったのか。
偽使徒たちに対しての信仰の戦いにおける忍耐において、愛が少しずつ薄れていき、勝利したと思ったときはもう愛から離れてしまっていたのです。忍耐が長くなればなるほど、また忍耐の度合いが強ければ強いほど他者を愛する余裕がなくなってまいります。忍耐することで精一杯となってしまうからであります。
偽使徒たちにつく者たちとそうでない者たちとの間の愛の交わりがまず冷えてまいります。
愛から離れていきます。そして使徒たちにつかない者たちの間でも長い忍耐ゆえに、心の余裕がなくなり互いに愛することがなかなかできなくなります。そして最後は偽使徒たちについた者の中で、自分の誤りに気付き悔い改めた者に対して偽使徒につかなかった者が彼らを受け入れることができず、愛することができない状態が起こったのです。
「互いに愛し合いなさい」という戒めだけでなく、「互いに赦し合いなさい」という主の戒めが守られていなかったのです。
この愛がないならエフェソの教会は主のからだとしての教会でなくなるとイエスは言われているのです。
「あなたの燭台をその場所から取り除けてしまおう」(5節)さえ言われているのです。
そうならないためにイエスは教会ができて間もないころの愛に戻りなさいと言われているのです。

2013年02月10日「エデンの園から十字架へ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:創世記3章1~24節

説教要旨:
今日の箇所は人間にどうして死がやってきたのか、苦難がやってきたのかを説明している箇所です。
それはアダムとエバが神の命令に逆らい罪を犯した結果であることを告げています。
しかし二人は自分たちが犯した罪の責任を他者に転嫁しています。
アダムはエバに、エバは蛇に転嫁しています。これは私たちもよくすることであります。
しかし究極において責任は犯した本人にあります。なぜなら人間は自由意志をもっているからです。
人間は神に従う自由も、逆らう自由ももっているからです。
神は人間を単に神に絶対服従する者としては造られませんでした。
ロボットのようには造られなかったのです。人間を自由意志をもった者として造られたのです。
その自由を人間は神に従うことで行使することも、神に逆らうことで行使することもできるのです。
神は私たちに主体的に神の戒めに従うことを求めているのです。あやつり人形のように従うことを求めているのではないのです。
人間の歴史は神に従わない自由を行使する傾向を強くもった歴史であります。その結果様々な悪がこの世に生まれました。人間は悪であることを知りつつ、悪を行ってきたのです。
それは、アダムとエバがエデンの園の善悪を知る木の実を食べた結果、死が人間に入ってきたのですが、食べることによって善悪を知る者となったからです。善悪を知る者になって善を行うことをすればいいのですが、それがなかなかできないのが人間であります。悪いと知りつつしてしまうのが、人間であります。神はそのことを恐れました。また二人が命の木から実を取って食べて、永遠に生きる者となる
ことも恐れました。悪いことを多く行う人間が命の木から取って食べることで永遠に生きる者になるならば、平和なエデンの園が破壊されるのは、時間の問題です。神はそのことを恐れたのです。
破壊される前に神はアダムとエバを楽園から追放したのでした。
追放された二人は自由意志を剥奪されず、持ち続けます。その後の人間も神に逆らう方向で自由意志を行使することが多く、世の中が乱れます。そしてその延長線上に今日の世界の現状があります。
神の平和はなかなか到来しません。神に逆らう方向で自由意志を行使することで様々な憎悪の関係が、争いが、敵意、差別がこれまで生まれてきました。人間はそれらを未だ克服していません。
アダムとエバが責任を他者に転嫁することで生まれた溝や壁は今日においても克服されていません。
私たちはどうしたら克服できるのでしょうか。それは一重に主の十字架にあります。
人間の罪の歴史がたどり着いた先に主の十字架が立っています。この十字架を通ることなしには、私たちには神の平和は訪れません。主の十字架を前にして、私たちは今まで犯した罪を悔い改め、罪を贖われて、新たに出発するしかないのです。私たちは主の十字架に従う自由も、従わない自由ももっていますが、一体どちらに自由を行使するのでしょうか。人類の未来は、主イエスに従う自由を行使することにかかっているのです。

2013年02月03日「あなたがたは光の子」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一、5章1~11節

説教要旨:
今日の箇所にはキリストの再臨のことが言われています。
再臨のことはイエスご自身が言われていることでもあり、確実に来るのですが、そのときがいつかは誰も分からないのです。いつ来るか分からないから目を覚ましていることが大切になります。
でも生理的にたえず目を覚ましていることは実際には無理です。
ですからこの箇所では、霊的に目を覚ましていることが言われているとみてよいと思います。
霊的に目を覚ましているとは、「主と共に生きる」(10節)ことと置き換えてもいいかと思います。
主と共に生きるとき、私たちは確実に光の子であります。なぜなら光であるキリストが私たちの内に住むからです。もしキリストと共に生きることができないなら、私たちは闇の子となってしまいます。
なぜなら光であるキリストを内に宿すことができず、私たちの心の内は闇のままであるからです。
私たちはキリストが内に住むことによって光の子とされますが、その光の子にも悪魔は襲ってきます。私たちを闇へと誘います。その悪魔の攻撃、誘惑に打ち勝つために私たちは「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶる」(8節)ことが大切です。
信仰とはキリストへの信頼、愛とはキリストの愛、救いの希望とは御国の希望です。
これらのものをいつも身に着けて歩むことで、悪魔の攻撃や誘惑から私たちは守られるのです。
守られるだけでなく、光の子として内から光を発し輝き続けることができるのです。
世の光として機能していくのです。

2013年01月27日「神に照準を」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書23章1~12節

説教要旨:
今日の箇所でイエスは「あなたがたは先生、教師と呼ばれてはならない」と言われていますが、そのままこの言葉を受け取るのではなく、その言われている真意を理解することが大事であります。
ここでイエスはファリサイ派、律法学者を批判して言われているということがまず前提にありますが、そのような彼らと同じようになってはいけないと言われているのです。
自分とは無縁なことであると見なさないことです。自分にもその傾向があるということを覚え、そのような方向へと向かわないことが大切であるのです。
ではどのような傾向であるのでしょうか。
それは自分の行為を神に見せるよりも、人に見せるという傾向です。
人の目を気にして、人から自分がどう見られているかに注意を払う傾向です。
ファリサイ派も律法学者も神の戒めを守ることには熱心でした。
彼らは人に神の戒めを説くだけでなく、それを実践しようとしていました。
しかし彼らの実践は人に見せるためということに中心にあったのです。
人に見せて、人から良い評価を得ることに関心があったのです。
そのことをイエスは批判しているのです。
神との関係において律法を守ることが大事であるのに、彼らはそうではなかったのです。
彼ら自身は神との関係で律法を守っているという自負があったのでしょうが、イエスはそうは見ず、実際は人の目を気にしての律法実践であると見なしたのです。
人の目を気にして行為していくとき、どうしても他人との比較が出てきます。
他人の行為と自分の行為を比較して、自分を評価することになります。
たとえば自分の方が律法をよく守っているとなると、自分の方が上に位置しているかのように思い、自分よりも律法を守っていない人を裁くのです。
ですからイエスは「人を裁くな」(マタイ福音書7章1節)と言われました。
神に照準を合わせて行動しないとき、私たちは容易にファリサイ派や律法学者となります。
彼らのように神に照準を合わせていると思っていても、実は合わせていないことも多く起こります。
私たちは人の目から解放された自由を神に、イエス・キリストに照準を合わせることで得ることができます。
イエスは彼ら、また私たちを批判しつつ、その自由を私たちに与えんともしているのです。

2013年01月20日「栄光を現すために」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書17章1~19節

説教要旨:
イエスは1節で「父よ、時が来ました」と言われています。
この時とは受難の時です。十字架の時です。その十字架において神の栄光を現してくださいと祈っています。この世的に考えれば、考えられないことです。苦難に栄光を見るということは、私たちにはなかなか考えられません。しかし十字架こそが神の栄光の最高の現れであるのです。頂点に立つ栄光です。
イエスはいろいろな奇跡を行われましたが、それらの奇跡も栄光の頂点に立つものではありません。
神はイエスを通して栄光を現されましたが、その栄光は十字架に極まったのです。
しかし神の栄光はイエスがこの地上に来られたあと現れたのではなく、神によって世が造られる前から、永遠の昔からあったのです。
父と子と聖霊の愛の交わりにおける栄光です。三一の神の内にある栄光です。
その神の栄光がキリストによって私たちのところにやってきたのです。
キリストの生涯において、神は奇跡をはじめ、さまざまなことを通して栄光を現しました。
その栄光の最大のものが十字架であるのです。
十字架において神の栄光が隠れるのではなく、現れるのです。
神の栄光が失われたと思われたところで、最も輝いているのです。
なぜなら十字架なしには私たちには永遠の命はないからです。
私たちの罪が十字架において贖われることなしには、永遠の命はありません。
そして永遠の命を得るにはキリストを知ることです(3節)。
ただ単にキリストを知識において知るというのではなく、キリストとの生きた交わり、それも愛の交わりにおいて知るのです。それは十字架に現れた愛です。
キリストの十字架の愛に結ばれて、その愛の交わりに生きることで私たちは、神の栄光を現す者となるのです。

2013年01月13日「聖霊の愛に導かれて」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:テモテへの手紙二、1章6~14節

説教要旨:
8節でパウロは「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と申しています。
私たちは苦しむことから遠ざかりたいと思っています。苦しみはできるだけ避けたいと思っています。
そのような私たちに対してパウロは「共に苦しみを忍んでください」と訴えます。
「共に苦しむ」上で言われていることは、「福音のために」ということです。福音とは一言でいえば、私たちの行いによるのではなく、神の恵みによってのみ私たちは救われるということです。神の恵みとはキリストの十字架の恵みです。
神は十字架においてその愛を現してくださいました。キリストが十字架で苦しまれたがゆえに私たちに救いが訪れました。
ですから神の愛には本質的に苦しみが内包されています。
苦しみのない愛は嘘の愛です。
パウロが8節で「神の力に支えられて」という場合、神の愛の力に支えられてと言い換えていいと思います。
もっと言えば、十字架で苦しまれたキリストの愛の力に支えられて「共に苦しみを忍ぶ」のです。
私たちは神の愛の力なしには、苦しみを忍ぶことは容易なことではありません。
十字架で私たちの救いのために苦しまれたキリストに支えられて忍ぶのです。キリストが苦しみとは無縁な御方であるなら、私たちを支えることはできません。キリストは苦難を負える御方であるから、私たちの苦難もまた負うことができるのです。
十字架の恵み(福音)で救われた私たちは、その恵みに応えて、福音のために、主を証しすることでキリストの苦しみを、またパウロの苦しみを「共に苦しむ」のです。
では苦難のとき私たちを支える神の愛の力は、具体的にはどういうかたちで与えられるのでしょうか。
それは聖霊において私たちに与えられるのです。私たちが愛の聖霊を祈り求めるとき、神はそれを与えてくださいます。
その愛の力(苦しみを内包した力)に支えられて、福音のために主を証しする者でありたい。

2013年01月06日「光の中を歩む」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章12~20節

説教要旨:
イエスは「私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」と言われています。
どうしてそういうことがいえるのでしょうか。それはキリストは世の光としてすでに私たちのところに来ているからであります。
そしてクリスチャンはそのキリストの光はどんなこの世の闇にも打ち勝つ光であることを知っている者であります。
しかし私たちの周りを見渡せば闇が依然として存在していることが分かります。光ばかりの世界とは限りません。
にもかかわらず光は私たちの四方八方を照らしていることは事実であります。
照らしているにもかかわらず、その光を私たちの方で遮り、闇を自ら造ってしまうのです。
そしてその闇に気付かずにいることも多いのです。
キリストの光は闇を照らします。それは裁くためではなく、私たちが闇に気付き、闇から解放されるためであります。
私たちが光の中を歩むためであります。
このキリストの光をもつとき、私たちは滅びの道ではなく、命の道を歩むことになります。
またその道は神へと帰る道ともなります。私たちは神から出て、神によって命を与えられ、その命を生き、いつか死を迎えますが、死が最後ではなく、その先に永遠の命をいただく道がまだあります。その道を歩むにもキリストの光が必要であるのです。私たちがこの地上での生活をする上で、また御心に沿って歩むためにもキリストの光は必要ですが、私たちが出てきたところへと帰る上でも必要なのです。
ファリサイ派の人たちも、神から出てきて、最終的には神に帰る存在であることは知っていました。
しかし彼らはその帰る道を何によって導かれるのかを知りませんでした。キリストが私たちのすべての導き手であるにもかかわらず、彼らはそれを認めず、排撃したのでした。
彼らには律法こそが導き手でありました。律法がすべてでありました。律法の奴隷でありました。
律法はあくまで一つの導き手でしかありません。すべてではありません。
それだけに頼っていては命の道はまことに危ういのです。
彼らはそのことに気付いていなかったのです。
私たちはこの一年、キリストの光に導かれて光の中を歩む者でありたい。