2013年01月27日「神に照準を」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書23章1~12節

説教要旨:
今日の箇所でイエスは「あなたがたは先生、教師と呼ばれてはならない」と言われていますが、そのままこの言葉を受け取るのではなく、その言われている真意を理解することが大事であります。
ここでイエスはファリサイ派、律法学者を批判して言われているということがまず前提にありますが、そのような彼らと同じようになってはいけないと言われているのです。
自分とは無縁なことであると見なさないことです。自分にもその傾向があるということを覚え、そのような方向へと向かわないことが大切であるのです。
ではどのような傾向であるのでしょうか。
それは自分の行為を神に見せるよりも、人に見せるという傾向です。
人の目を気にして、人から自分がどう見られているかに注意を払う傾向です。
ファリサイ派も律法学者も神の戒めを守ることには熱心でした。
彼らは人に神の戒めを説くだけでなく、それを実践しようとしていました。
しかし彼らの実践は人に見せるためということに中心にあったのです。
人に見せて、人から良い評価を得ることに関心があったのです。
そのことをイエスは批判しているのです。
神との関係において律法を守ることが大事であるのに、彼らはそうではなかったのです。
彼ら自身は神との関係で律法を守っているという自負があったのでしょうが、イエスはそうは見ず、実際は人の目を気にしての律法実践であると見なしたのです。
人の目を気にして行為していくとき、どうしても他人との比較が出てきます。
他人の行為と自分の行為を比較して、自分を評価することになります。
たとえば自分の方が律法をよく守っているとなると、自分の方が上に位置しているかのように思い、自分よりも律法を守っていない人を裁くのです。
ですからイエスは「人を裁くな」(マタイ福音書7章1節)と言われました。
神に照準を合わせて行動しないとき、私たちは容易にファリサイ派や律法学者となります。
彼らのように神に照準を合わせていると思っていても、実は合わせていないことも多く起こります。
私たちは人の目から解放された自由を神に、イエス・キリストに照準を合わせることで得ることができます。
イエスは彼ら、また私たちを批判しつつ、その自由を私たちに与えんともしているのです。

2013年01月20日「栄光を現すために」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書17章1~19節

説教要旨:
イエスは1節で「父よ、時が来ました」と言われています。
この時とは受難の時です。十字架の時です。その十字架において神の栄光を現してくださいと祈っています。この世的に考えれば、考えられないことです。苦難に栄光を見るということは、私たちにはなかなか考えられません。しかし十字架こそが神の栄光の最高の現れであるのです。頂点に立つ栄光です。
イエスはいろいろな奇跡を行われましたが、それらの奇跡も栄光の頂点に立つものではありません。
神はイエスを通して栄光を現されましたが、その栄光は十字架に極まったのです。
しかし神の栄光はイエスがこの地上に来られたあと現れたのではなく、神によって世が造られる前から、永遠の昔からあったのです。
父と子と聖霊の愛の交わりにおける栄光です。三一の神の内にある栄光です。
その神の栄光がキリストによって私たちのところにやってきたのです。
キリストの生涯において、神は奇跡をはじめ、さまざまなことを通して栄光を現しました。
その栄光の最大のものが十字架であるのです。
十字架において神の栄光が隠れるのではなく、現れるのです。
神の栄光が失われたと思われたところで、最も輝いているのです。
なぜなら十字架なしには私たちには永遠の命はないからです。
私たちの罪が十字架において贖われることなしには、永遠の命はありません。
そして永遠の命を得るにはキリストを知ることです(3節)。
ただ単にキリストを知識において知るというのではなく、キリストとの生きた交わり、それも愛の交わりにおいて知るのです。それは十字架に現れた愛です。
キリストの十字架の愛に結ばれて、その愛の交わりに生きることで私たちは、神の栄光を現す者となるのです。

2013年01月13日「聖霊の愛に導かれて」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:テモテへの手紙二、1章6~14節

説教要旨:
8節でパウロは「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と申しています。
私たちは苦しむことから遠ざかりたいと思っています。苦しみはできるだけ避けたいと思っています。
そのような私たちに対してパウロは「共に苦しみを忍んでください」と訴えます。
「共に苦しむ」上で言われていることは、「福音のために」ということです。福音とは一言でいえば、私たちの行いによるのではなく、神の恵みによってのみ私たちは救われるということです。神の恵みとはキリストの十字架の恵みです。
神は十字架においてその愛を現してくださいました。キリストが十字架で苦しまれたがゆえに私たちに救いが訪れました。
ですから神の愛には本質的に苦しみが内包されています。
苦しみのない愛は嘘の愛です。
パウロが8節で「神の力に支えられて」という場合、神の愛の力に支えられてと言い換えていいと思います。
もっと言えば、十字架で苦しまれたキリストの愛の力に支えられて「共に苦しみを忍ぶ」のです。
私たちは神の愛の力なしには、苦しみを忍ぶことは容易なことではありません。
十字架で私たちの救いのために苦しまれたキリストに支えられて忍ぶのです。キリストが苦しみとは無縁な御方であるなら、私たちを支えることはできません。キリストは苦難を負える御方であるから、私たちの苦難もまた負うことができるのです。
十字架の恵み(福音)で救われた私たちは、その恵みに応えて、福音のために、主を証しすることでキリストの苦しみを、またパウロの苦しみを「共に苦しむ」のです。
では苦難のとき私たちを支える神の愛の力は、具体的にはどういうかたちで与えられるのでしょうか。
それは聖霊において私たちに与えられるのです。私たちが愛の聖霊を祈り求めるとき、神はそれを与えてくださいます。
その愛の力(苦しみを内包した力)に支えられて、福音のために主を証しする者でありたい。

2013年01月06日「光の中を歩む」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章12~20節

説教要旨:
イエスは「私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」と言われています。
どうしてそういうことがいえるのでしょうか。それはキリストは世の光としてすでに私たちのところに来ているからであります。
そしてクリスチャンはそのキリストの光はどんなこの世の闇にも打ち勝つ光であることを知っている者であります。
しかし私たちの周りを見渡せば闇が依然として存在していることが分かります。光ばかりの世界とは限りません。
にもかかわらず光は私たちの四方八方を照らしていることは事実であります。
照らしているにもかかわらず、その光を私たちの方で遮り、闇を自ら造ってしまうのです。
そしてその闇に気付かずにいることも多いのです。
キリストの光は闇を照らします。それは裁くためではなく、私たちが闇に気付き、闇から解放されるためであります。
私たちが光の中を歩むためであります。
このキリストの光をもつとき、私たちは滅びの道ではなく、命の道を歩むことになります。
またその道は神へと帰る道ともなります。私たちは神から出て、神によって命を与えられ、その命を生き、いつか死を迎えますが、死が最後ではなく、その先に永遠の命をいただく道がまだあります。その道を歩むにもキリストの光が必要であるのです。私たちがこの地上での生活をする上で、また御心に沿って歩むためにもキリストの光は必要ですが、私たちが出てきたところへと帰る上でも必要なのです。
ファリサイ派の人たちも、神から出てきて、最終的には神に帰る存在であることは知っていました。
しかし彼らはその帰る道を何によって導かれるのかを知りませんでした。キリストが私たちのすべての導き手であるにもかかわらず、彼らはそれを認めず、排撃したのでした。
彼らには律法こそが導き手でありました。律法がすべてでありました。律法の奴隷でありました。
律法はあくまで一つの導き手でしかありません。すべてではありません。
それだけに頼っていては命の道はまことに危ういのです。
彼らはそのことに気付いていなかったのです。
私たちはこの一年、キリストの光に導かれて光の中を歩む者でありたい。