2013年04月21日「ダビデのダンス」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:サムエル記下6章1~23節

説教要旨:
今日の聖書の箇所でダビデ王は喜び踊っています。ただその踊り方が王としてふさわしくないと妻のミカルはダビデを批判しています。
ダビデはその批判を受け入れつつも、自らの行為は主の御前にある行為であることを告げてます。また自分の行為は民とともにあることを告げます。王として威厳をもって高みから民と接する者ではないことを告げるのです。
ダビデにおいては、主の御前が問題です。周囲の人の目が問題ではありません。
世間がイメージしている王(気品があって威風堂々としているイメージ)とは違っても、そのイメージを壊すような踊りであっても、それが主の御前にあって出てきた行為であるなら、自分は気にしないというのがダビデの考えです。
妻ミカルは世間体を気にしました。ミカルはダビデが王としてふさわしいと世間が思うような行動を取ることを願いました。
そしてふさわしくない行動にダビデが出たとき、それも裸で踊ることをしたとき、ダビデを蔑むことをしたのです。
このミカルの行動に対して神は否を言われたのです。
ダビデは世間が自分をどう見るかということに左右されて行動しませんでした。
神の御前でどうであるかがダビデの関心でした。
その行為、踊りを神は受け入れました。神はミカルを裁かれましたが、ダビデの踊りに関しては裁いていません。神の目からすれば、ダビデの踊りは王にふさわしいものであったからです。
私たちはどうでしょうか。周囲の目によって行動が左右されてはいないでしょうか。
それとも神によって行動が左右されているのでしょうか。

2013年04月14日「キリストに結ばれて」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二、5章16~21節

説教要旨:
17節「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とありますが、キリストと結ばれるとはどういうことでしょうか。また結ばれるとどうして新しく創造されるのでしょうか。
新しいものでありますから、古いものがあるはずです。古いものとは一体何を指しているのでしょうか。
それは古い人間です。古い型の人間です。神との和解がない人間です。神を敵としている人間です。
敵とまでしていなくても、不仲の関係にある人間です。
神が敵であれ、不仲の存在としてあれ、そのような存在に対して私たちは弱さを見せることをしません。
弱さを見せれば、攻撃を受けるのではないかとの恐れを抱きます。そこに平安はありません。
神が裁きの神だけであるなら、私たちはそのような心的現象をもつことでしょう。
しかし神は愛なる神であります。主イエスの十字架を通して、そのことを示されました。
私たちはこの十字架の主の前にあって、弱さを隠す必要はありません。私たちは主の御前では無防備になっていいのです。
むしろそのことを主は望まれます。自分の強さを見せようと覆っていた鎧などの武器を放棄していいのです。
虚構の強がりを捨て去り、ありのままの自分をさらけ出していくことが大事です。自らの罪ある姿をさらけ出すとき、主の十字架はそれを受け入れ、罪をゆるし、和解をしてくれます。神との和解で私たちはキリストに結ばれます。
そこから私たちの新しい創造が始まるのです。結ばれたキリストを通して聖霊が私たちに注がれます。
この聖霊によって私たちは日々新たに創造されていくのです。自らの力によって新しく創造するのではありません。
ですからキリストに結ばれることがないと私たちの新しい創造は起こらないのです。

2013年04月07日「空しさから充足へ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書21章1~14節

説教要旨:
復活のキリストと出合った弟子たちでありましたが、まだ十字架の方が復活よりも彼らの心を圧倒していました。「主は復活し、生きておられる」という実感がまだ確かなものではありませんでした。空しさが心をまだ支配していました。生の充実感はとてももてる状態ではありませんでした。
そんな中再び復活の主が弟子たちのところに現れます。そのとき弟子たちは夜通し魚を獲っていましたが、一匹も獲ることができませんでした。空しさは増すばかりです。精神的な空しさだけでなく、生きる糧を得ることができないという空しさです。弟子たちは、空腹という肉体的にも空っぽ状態にありました。そのときに主は言われました。「舟の右側に網を打ちなさい」と。その通りにすると魚が一杯獲れたのです。それまで声をかけた人が復活の主であることが分からずにいた弟子ですが、その人が復活の主イエスであることに気付くことになるのです。なぜ気付いたのでしょうか。それはかつて同じようなことがあったからです。
ルカ福音書5章にはその出来事が記されています。その出来事はペトロと他の弟子たちの召命の記事です。弟子としての召命を受ける前に、夜通し漁をしたのに、一匹も獲れなかったという出来事がありました。そのことを主イエスはご覧になり、「沖へ出てもう一度漁をしなさい」といわれたのです。その通りにすると、網が破れそうになるほど獲れたのです。そして「人間をとる漁師になるのだ」と弟子として召されたのでした。そういう忘れることのできない出来事ゆえに、同じことが起こるとすぐに思い出し、主であると分かったのです。さらに主は弟子たちと共に朝の食事をするのです。かつてしたのと同じように主は感謝して、パンと魚を弟子たちに分け与えられたのでした。もう誰もその人が主イエスであることを疑う者はありませんでした。主と共なる食事で肉体的に満たされただけでなく、精神的にも彼らには充足感がありました。主は生きておられるということを今確かに実感したのです。そのとき彼らの空しさは消え去り、内は主の愛で満たされることとなったのです。

2013年03月31日「キリストの墓はどこに」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書24章1~12節

説教要旨:
キリストの遺体が納められた墓の中は空っぽでした。
婦人たちは、天使からキリストは復活したことを告げられます。
彼女らはそのことを弟子たちに報告したのですが、弟子たちは信じることが出来なかったのです。
私たちも復活ということがなかなか信じられない者です。
しかしこのふつうには信じられない復活を世々の教会は信仰の核として大切にしてきました。核でありますからそれを失うと信仰は空洞化してしまいます。その外側にいかにいろいろなものを塗りたくっても、その塗りたくったものでもって、これが信仰ですと主張してみても空しいのです。中身が空洞であるからです。
キリストの遺体がない空っぽの墓ということだけで復活が信じられないならやはりその信仰は中身のないものといえます。墓が空っぽであるのは、誰かが遺体を盗んだからだというようにキリストの復活を否定してみてもそれで信仰が完成されるものではありません。私たちは天使たちの言葉をまた聖書の復活証言を信じることです。復活を信じるのに空っぽの墓で十分ではないですか。
キリストの墓の場所は今日誰もどこにあったと確定できない事柄となっています。
世々の教会はそのことにあまり関心がなかったといえます。
キリストが復活したからこそ、今も生きて働いておられるからこそ墓など関心事ではなかったのではないのでしょうか。もし墓が空っぽでなかったなら、キリストの遺体が依然として納められたままであるなら、今日のようにキリスト教会は存在していなかったことでしょう。
墓が空っぽであったがゆえに弟子たちの心の空洞が、また私たちの心の空洞がよみがえられたキリストによって満たされることになったのではないのでしょうか。