2012年01月29日「大胆に恵みの座に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙4章1~16節

説教要旨:
神の安息ということが言われていますが、これは天地創造の7日目に神が休まれたことと関係しています。さらにこの神の安息が新約聖書においては神の御国の成就のときを指していることは確かです。新しい天と地のなるときです。そのとき私たちは永遠の安息に入るのですが、その神の約束から取り残されてしまったと思われる者が出ないように気をつけなさいと言うのです。その注意はイスラエルに当てはまることでありますが、新約の民においても当てはまることがないように注意しなさいと言うのです。しかし取り残されたとは言われていないことにも注意を払いたいと思います。まだ神はイスラエルに対して、またイエス・キリストを受け入れない人に対しても神の安息にあずかることを望まれています。神は全人類が神の安息にあずかることを欲しているのです。
神の安息からはずれることがないように、神の御言葉に忠実に歩むことが求められるのですが、なかなかそれができないのが私たちであります。そんな私たちの弱さを主イエスはよくご存知であります。ですから主のもとに自分の弱さをもっていくなら、弱さをあずけるなら、主は私たちの弱さを受け入れ、聖霊によって強めてくれるのです。私たちの弱さはキリストにあってはマイナスではなく、キリストに結ばれる契機となるものであり、そのことゆえに恵みでもあることを覚えたい。

2012年01月22日「主イエスに忠実に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙3章1~19節

説教要旨:
ヘブライ人への手紙3章5、6節では「モーセは神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです」。と言われています。
モーセはあくまで人間であり、神によって建てられたイスラエルという家の中の一員であり、一員でありつつも、神の召しによりイスラエルをエジプトから導き出す役割を担い、神の意志に忠実に行動したのですが、イエスは神の御子として新しいイスラエル=新しい神の家である教会を、さらに教会に属するキリスト者を建て、その頭となって父なる神の意志に忠実にキリスト者を導くのです。モーセは神によって造られた者であり、イエスは教会と私たちを造った御方である点で大きな違いがあるのです。ゆえにイエスの方がモーセよりも大きな栄光を受けるにふだわしいのです。
そのキリストの栄光をキリスト者は新しい神の家の中の一員として受けていることを覚えたいと思います。
具体的にはキリストの栄光を私たちは聖霊を通して受けています。
新しいイスラエルに属する私たちは聖霊においてキリストを内に宿し、キリストによって内を治めていただくことでキリストに忠実な歩むができるようになるのです。
聖霊の内住がないと、私たちは荒野でのイスラエルの民のようになってしまうのです。

2012年01月15日「人間の栄光のために」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙2章1~18節

説教要旨:
今日の箇所でヘブライ書の著者は詩編8編を引用して、主イエスが詩編で言われている御方であることを語ります。私たちは、ふつう詩編8編での「すべてのものをその足の下に従わす」者を人間として受け取りますが、ヘブライ書の著者は、そうではなくイエス・キリストであると受け取ります。「わずかの間、低い者とされた」とは主イエスの十字架のことであり、その主の十字架から私たち人間を見るのです。イエスの低さにおいて人間を見て、イエスの低さゆえに私たち人間は高められるのです。言い換えれば私たちが高められるのは、栄光を受けるのは、主の十字架を抜きにしてはありえないのです。イエスの十字架の道なしには、私たちは救われることはないのです。十字架にまで低きに下られたイエスによって、罪の深い淵から引き上げられ、私たちは救われるのです。救われてそれで終わりではなく、それから私たちは聖化の道を主とともに歩みます。イエスによって清められる道が始まるのです。さらにその先私たちを待っているのは、キリストの再臨のときにある永遠の御国の成就です。十字架でもって主の道が終わりでなく、主は復活されたように私たちも復活のからだを与えられ、死の恐怖から解き放たれそ、永遠の命を受け、神の永遠の御国へと入るのです。それが私たちの人生のゴールであり、そのときこそが究極の栄光のときであるのです。

2012年01月08日「命かそれとも」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エレミヤ書21章1~10節

説教要旨:
今日の聖書の箇所は預言者エレミヤがイスラエルの滅亡を預言する箇所です。
イスラエルが滅亡するには理由がありました。それは、偶像礼拝にありました。
神によって選ばれた民であるにもかかわらず、民はヤハウエ以外の神を拝むことをしていたのです。
神は、幾度となく預言者を通して神に立ち帰るように説いたにもかかわらず、民は立ち帰ることなかったからであります。
国の滅亡は神の裁きでありました。しかし神は非情にもそうなされたのではありません。
民の立ち帰りを期待し、そうなされたのであります。そこまでせざるをえなかったほど民の偶像礼拝は、とても深刻に神の目には映っていたのです。
国の滅亡が今の神の意思であるゆえ、バビロニアに抵抗するのではなく、降伏することが命の道であることをエレミヤは語ったのであります。エレミヤがそのように語ることはまことに辛く苦しいことでありました。でもエレミヤはあえて語らざるをえませんでした。
語られた民の側では、依然としてエレミヤの言葉を受け入れることはありませんでした。なぜならエルサレムの不滅神話を信じていたからです。神の都エルサレムは敵から守られるはずであると信じていたからです。
そこでむしろエレミヤの言葉はうそであると見なし、迫害したのです。エレミヤの語る道は死の道であると考えたのです。
その結果は国の滅亡であり、バビロニアに徹底抗戦した民はすべて殺されることとなったのです。エレミヤの預言が真実となったのです。
私たちは自分に都合の良いように状況を見、判断します。本当はそれが死の道であるにもかかわらず、そのときはそれが命の道であるかのように錯覚してしまうことが多いのです。神の道、命の道は必ずしも私たちの願う道とは違います。
この一年、私たちは神の御言葉に信頼し、御言葉に忠実に歩む者でありたい。たとえそれが苦難の道であっても。