2009年3月29日「一粒の麦」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書12章20~29節
23、イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
24、はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
25、自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
26、わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父 はその人を大切にしてくださる。

説教要旨

主イエスは一粒の麦の死のことについて言われます。主イエスはここでは、麦の種のことを言っているのです。種がそのままでは種のままであり、決して実を結 ぶことはありません。種が種でなくなることで実を結ぶことを言われているのです。

種が種でなくなるとは、私たちの自我が新たなものへと変わることを意味します。「自分の命を愛する者」とは自我を愛する者と言い換えてもいいことで す。自我を愛し続ける限り、私たちには新生がないことを語っているのです。新生がないところに実を結ぶことはありません。

一方自我に死ぬ者は新しい命を与えられ、その命は永遠の命という実を結ぶことを主イエスは教えているのです。では一体自我に死ぬにはどうしたらいい のでしょうか。それは主イエスの十字架の血潮を受けることです。十字架は私たちの自我を打ち砕きます。打ち砕かれた自我に代って、十字架の主イエスを受け 入れるとき、私たちの内に新生の出来事が起こるのです。

2009年3月22日「神の子羊イエス」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章29~34節
29、その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。
30、『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである。』とわたしが言ったのは、この方のことであ る。
31、わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けてきた。」
32、そしてヨハネは証しした。「わたしは、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

説教要旨

バプテスマのヨハネは主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(29節)と言いました。
これはキリスト者にとっても大切なことであります。私たちは他の誰でもない主イエスが「世の罪を取り除く」御方であることをまず指し示すべきであるので す。

歴史的に見れば、教会は主以外のものを指し示すことがありました。世の罪を取り除く神の子羊よりも偶像的なものを指し示すことがありました。
ま た主イエスを指し示すことをしても、「世の罪を取り除く」主であることが軽んじられることもありました。

また主イエスではなく、ルターやカルヴァンを指し示すこともありました。ルターやカルヴァンはヨハネと同じように「世の罪を取り除く神の子羊」を指 し示そうとしたのです。
その後継者たちはともすればそうではなく、主イエスよりもルターやカルヴァンの権威を重んじるようなところもありました。 主イエスがルターやカルヴァンの権威に服するような面があったのです。その結果教会の分裂ということも起こりました。

私たちは主イエス・キリストの権威に服するべきであるのです。
主の権威に服するとは、私たちが人間ゆえに犯す罪を十字架の主にゆだねることでもあります。ゆだねて主イエスに罪を処理してもらうことです。
ゆだ ねることができないとき、十字架は見えなくなっていきます。主にゆだねるとき、神との和解、また人間相互の和解も起こってくることを覚えたい。

2009年3月15日「神の全き犠牲」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙9章11~28節
11、けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものでは ない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
12、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
27、また、人間はただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
28、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたら すために現れてくださるのです。

説教要旨

今日の箇所は大祭司キリストのことが言われています。
旧約時代の祭司とは違い、キリスト自らが神と私たち人間との和解のためにその身を十字架に犠牲(いけにえ)として献げられたことが説かれています。動物の 犠牲を介することなく、直接的に神と私たち人間との和解のための仲保者となられたのです。

なぜなら動物の犠牲では不完全であるということです。また他の人間の犠牲でも不完全であるということです。どのような人間も罪人であり、どのような 業を積んでも罪人であることから自由になることはできず、神との和解を自らの力ではできないからです。

神自らが手を差し伸べてくださらない限り、私たちには神との和解は不可能なのです。そのため愛する御子イエス・キリストが私たちに差し出され、動物 に代わる犠牲として献げられたのです。
そしてその犠牲は一度限りであります。ゆえに非常に重い意味をもっているのです。

なぜ重いのでしょうか。それは一度に全人類の罪を担い、贖うからです。ほかの誰も一度にそんなことができる人はいません。誰もそんなことをしたら、 一瞬のうちにつぶれてしまいます。
それは神の御子イエス・キリストのみができることであるのです。言い換えれば十字架の一点に私たちの全人類の罪がのしかかっているのです。

そして十字架の犠牲は完全なる犠牲です。中途半端な犠牲ではありません。
10パーセント罪が贖われた、あるいは50パーセント、はたまた99パーセント贖われたというものではありません。100パーセントの贖いです。完全に清 く罪なき御方イエス・キリストであるから、100パーセントの罪の贖いが果たされるのです。
ここに私たちの平安があります。私たちはその平安に身をゆだねることがイエス・キリストの犠牲ゆえにゆるされているのです。その平安は、私たちが世にあっ て生きている日々においても、また世を去るときにも、最後の審判の日にもあずかることができるものなのです。

2009年3月8日「神様の宝物」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書13章44~46節
44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑 を買う。
45、また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
46、高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

説教要旨

今日の箇所は天の国(天国、神の国)についてのたとえであります。
このたとえ話で主イエスはこの地上のどんな宝よりも天の国は素晴らしいものであり、 すべてのものを売り払ってでも手に入れるべきものであることを教えています。

しかしここでよく考えてみてください。果たしてすべてを売り払うようなことができるでしょうか。そんなに素晴らしいものであるなら、手に入れたいと 思うかもしれませんがすべてを売り払うとなると尻込みするのではないのでしょうか。実行となると容易ではありません。直に現物を見ているのではないのです から、なおいっそうリスクが伴います。 天の国が果たして存在するのかどうか目では確かめようがないからです。

これは信仰においてしか信じることができないことがらです。主イエスを信じる信仰でしか確かめることはできないのです。
そんな不信仰の私たちでありますが、神は憐れみ、主イエスを私たちの救いのために 十字架に渡し、私たちを獲得してくださったのです。御子イエス・キリストの血潮という 代価を払い、私たちを買い戻してくださったのです。
私たちはそういう意味で神さまの宝物です。神様がこれ以上ない代価を私たちのために 支払れたのです。この神の愛に応答して、神さまの宝物にふさわしく生きていきたい。

2009年3月1日「御言葉なるキリスト」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書10章38~42節
38、一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
39、彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
40、マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています が、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」
41、主はお答えなにった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
42、しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

説教要旨

今日の箇所にはマリアとマルタという主イエスに対して異なった態度をとった姉妹が登場してきます。よく教会ではマリア型かマルタ型かの対立があります。両 者は引き裂かれた関係にあります。両者の対比は、マリアは聞き入るだけで何もしない、一方マルタはせっせと主に仕えているではないかという対比です。両者 は静と動という関係でよく捉えられます。ともすれば動の方が優位に立つ場合が多いのです。動かないことには何も事は始まらないではないか、座っていては何 も始まられないではないかという考えの優位です。

しかし主イエスはマリアの方を弁護するのです。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(42 節)と。
ここには聖書独特の考えがあります。神の御言葉を聴くことからすべては始まるという考えです。
天地創造も御言葉によって成りました。神の御言葉なしにはこの世界は存在しません。御言葉は私たちを創造する力、何かを生み出す力、改革する力をもってい ます。御言葉なしには私たちは新たな創造を受けることはできないのです。御言葉を聴くことなしには、私たちは力をもつことができないのです。ですからまず 御言葉です。御言葉を受けて、御言葉に押し出され私たちは行動するのです。

マリアはこのことを選んだのです。マリアなしにマルタはないのです。まずマリアのように主イエスの御言葉を聴いていくことの中で、この世の思い煩い から解き放たれた、自由にされたマルタが現れてくるのです。このようにして主イエスはマリアとマルタという両者の対立、分裂を和解させるのです。