2009年3月15日「神の全き犠牲」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙9章11~28節
11、けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものでは ない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
12、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
27、また、人間はただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
28、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたら すために現れてくださるのです。

説教要旨

今日の箇所は大祭司キリストのことが言われています。
旧約時代の祭司とは違い、キリスト自らが神と私たち人間との和解のためにその身を十字架に犠牲(いけにえ)として献げられたことが説かれています。動物の 犠牲を介することなく、直接的に神と私たち人間との和解のための仲保者となられたのです。

なぜなら動物の犠牲では不完全であるということです。また他の人間の犠牲でも不完全であるということです。どのような人間も罪人であり、どのような 業を積んでも罪人であることから自由になることはできず、神との和解を自らの力ではできないからです。

神自らが手を差し伸べてくださらない限り、私たちには神との和解は不可能なのです。そのため愛する御子イエス・キリストが私たちに差し出され、動物 に代わる犠牲として献げられたのです。
そしてその犠牲は一度限りであります。ゆえに非常に重い意味をもっているのです。

なぜ重いのでしょうか。それは一度に全人類の罪を担い、贖うからです。ほかの誰も一度にそんなことができる人はいません。誰もそんなことをしたら、 一瞬のうちにつぶれてしまいます。
それは神の御子イエス・キリストのみができることであるのです。言い換えれば十字架の一点に私たちの全人類の罪がのしかかっているのです。

そして十字架の犠牲は完全なる犠牲です。中途半端な犠牲ではありません。
10パーセント罪が贖われた、あるいは50パーセント、はたまた99パーセント贖われたというものではありません。100パーセントの贖いです。完全に清 く罪なき御方イエス・キリストであるから、100パーセントの罪の贖いが果たされるのです。
ここに私たちの平安があります。私たちはその平安に身をゆだねることがイエス・キリストの犠牲ゆえにゆるされているのです。その平安は、私たちが世にあっ て生きている日々においても、また世を去るときにも、最後の審判の日にもあずかることができるものなのです。