2010年5月30 日「新しい生き方」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書13章10~7節

説教要旨:
今日の箇所で主イエスは18年間も腰の曲がったままの女性を癒しております。しかしその日は安息日でありました。旧約聖書の教えでは、その日は何もしてはいけない日でありました。その日は癒しさえしてはいけない日とみなされていたのです。その戒めをイエスは破ることをします。会堂長は安息日に女性が癒されたゆえに、腹を立てます。しかし主イエスは言います。「18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と。
この言葉から「人のために安息日はある。安息日のために人があるのではない」というイエスの安息日規定からの解放宣言が響いてまいります。イエスの「女性は18年もの間サタンに縛られていた」との言葉を私たちは誤解しないようにする必要があります。女性が病気なのは、サタンのせいであると誤解することは誤りです。イエスの言わんとするところは、安息日規定に人が奴隷になっているような状態こそがサタンに縛られていることであるのです。
女性もまた当時のユダヤ人社会の支配的な考えのもと生きていましたから、安息日規定を破ることなど眼中にないことでした。ですから癒しを行うとされるイエス様が目撃しながれも、自分の方から癒してくださいと申し出ることができなかったのです。そんな女性の囚われた考えも主イエスは解き放たれていかれるのです。現代人である私たちもまた時代の支配的な考えに囚われるということはあります。その囚われが非人間的な作用を及ぼすことがあります。差別偏見というような形において現れます。主イエスはそのような誤った考えから私たちを解き放つためにもこの世に来られたのです。
主イエスに従うとは、主イエスの自由を共に共有することでもあります。主イエスによって自由にされた私たちは、時代の支配的な考えからも自由にされて生きる者であることを覚えたい。

2010年5月23 日「コミュニケーションの回復」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録2章1~11節

説教要旨
今日の箇所では、不思議なことが起こっています。知っているはずのない他国の言葉でめいめいが話し始めたのです。そして意志の疎通ができたのです。そんなことは起こりうるはずがないと思われますが、事実起こったのです。起こりえないことを引き起こすのが聖霊の働きであります。今日世界は意志の疎通ができない状態がいろいろなところであります。国と国と、民族と民族、異なる宗教間において、人と人との間であります。言語を同じくする人の間ですらあるのです。私たちは言語を統一すれば、文化を統一すれば、政治や経済を統一すれば宗教を統一すれば、意志の疎通は容易になると考えます。しかし必ずしもそうではありません。本当に私たちの意志の疎通にとって必要なのは、聖霊であります。
聖霊は言語の壁を乗り越えていきます。文化、政治、経済、宗教の壁を乗り越えていきます。信徒言行録はその証しと言える書であります。普段なかなか意志の疎通のできない者の間に聖霊が降ると意志の疎通が可能となるのです。さらにそこに信仰者が生まれることさえ引き起こすのです。

2010年5月16日「聖霊による喜びの充満」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書10章17~24節

説教要旨
主イエスは聖霊によって喜びに溢れています。聖書では、聖霊は喜びと深く結びついています。ガラテヤの信徒への手紙5章22節では聖霊の結ぶ実として愛、喜び、平和などあげられています。
私たちの人生において喜びのない人生など誰も望みません。誰もが喜びに満ちた人生を送りたいと思っています。でも人生はそんなに甘くはなく、苦難の連続といっても言い過ぎではありません。私たちにとって、苦難の中で喜ぶことは至難のわざであります。しかし聖霊はどんなときにも喜びを与えてくれます。
テサロニケの信徒への手紙一、5章16節では「いつも喜んでいなさい」と勧められています。いつも喜ぶ秘訣は聖霊です。聖霊なしで私たちはいつも喜ぶことなど到底無理なのです。主イエスが喜びに溢れた背景には、悪霊が神に服従し、聖霊が支配する時になったことがあります。聖霊が支配するとは、愛、喜び、平和が支配するときであるということです。主イエスはその生涯において、そのことを証しされたのであります。知恵ある者や賢い者はそのことが分かりません。信じられません。
しかし幼子のような者にはそのことが開示され、信じることをえさせてくださいます。幼子のような者とは、神様なしには自分は生きられないことを謙虚によく知っている者です。神に全く依存する者であります。
幼子のような者は、世の中がどんなに暗くあろうとも、聖霊の支配を信じているがゆえに、一切を神に望みをおくがゆえに、天から差し来る神の栄光の光を見ることができ、そのことで喜びに満たされるのです。