2012年03月25日「負い目の償い」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書14章66節~72節

説教要旨:
今日の箇所はペトロの裏切りの場面です。かつてペトロは「たとえ、みんながつまづいても、わたしはつまづきません」、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14章29節、31節)と言いました。
しかし今日の箇所で彼は知らないと3度イエスを否んだのであります。
ここに私たち誰もが見せる人間の弱さがあります。誰一人としてペトロと別人である人はいないのです。自分の命がかかるような状況下では私たちは容易に日和見になるのです。
そして後で後悔することもあります。どうしてあんな行為をとってしまったのだと悔やむのです。自分の日和見によって傷を負った人に対して負い目を感じるのであります。
どうしたら負い目を償うことができるのかと人は悩みます。傷を負わせた相手に赦しを求めます。
相手が赦してくれるならいいのですが、赦してくれない場合も当然あります。
もし仮に赦してもらっても、心は平安に完全にはなりきれません。
多少負い目は軽くなっても、依然として負い目を引きずったままであるのです。
私たちは平安を得ようと思うなら、人間を超える御方に負い目の償いをしてもらうしかないのです。私たち人間の償いの行為によって完全に罪を償うことなどできないからです。人間による罪の償いには限界があるのです。
私たちを創造された御方によって、私たちの命の根源である御方に償ってもらうしか完全な償いはないのです。その完全な償いをする方がイエス・キリストであります。
キリストは十字架でそのことを果たしてくださいました。私たちの負い目を十字架で私たちに代わってすべて負われたのです。
私たちはこのことを確信することで、はじめて平安が訪れるのです。
そして十字架に現われた神の愛に報いて生きようとする道が開けます。
イエスの弟子たちはその道を復活のキリストと出会い、歩き始めることとなったのです。

2012年03月18日「愛の聖餐」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一、11章17~34節

説教要旨:
ここに初代キリスト教会の聖餐の祝われ方が記されています。
今日とは相違があります。それは愛餐が聖餐と分離していなかったということです。
分離していなかったがゆえに、今日の箇所での問題も起こったといえます。
パウロによって批判されている人々は聖餐と愛餐を分離して考えていました。
だから聖餐に先立つ愛餐ではどのように食事をとろうが好き勝手だみたいな考えから食事をとりました。その結果起こったことは、愛餐に遅れてきた人は食べる物がないという由々しき事態が生じたのです。パウロはそのことを批判しました。
キリストのからだである教会にとってふさわしいことではないと罪の悔い改めを迫ったのです。
パウロにとって主の食卓は愛餐と聖餐と同じテーブルであります。ここからは愛餐のテーブルで、ここからは聖餐のテーブルであるという具合にテーブルを分離できないのです。
同じ主のからだに属する者として皆同じ主の食卓につき、共に分かち合うべきであるのです。
そこに分離や分裂があっては主のからだにふさわしいことではないのです。

2012年03月11日「ユダとペトロ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書26章14~25節

説教要旨:
今日の箇所はユダの裏切りの場面であります。
イエスの弟子たちの中からイエスを裏切る者が出るということは、イエスの力について疑問をもたれるところであります。
12弟子はイエス自ら選んだ弟子たちであります。その選びが間違っていたのか。
イエスは選ぶ段階で弟子の裏切りを見抜けなかったのか。
イエスの神性に疑問符がつきかねないことであります。
しかしイエスが無能であったから、裏切りが起こったのだと結論づけるには無理があります。なぜなら裏切りは旧約聖書において預言されていたことであるからです。預言は成就すべきものであります。誰かが裏切りの役を担わなければならなかったのです。そのことをイエスは知った上であえてユダを選んだのです。ユダは過酷な運命を選ばれる段階で、いや生まれながらにして担わねばならなかったのです。
神のご計画の中でユダの裏切りは起こります。ユダにはどうしようもないことであったのです。確かにユダの側では自分の意志でイエスを売り渡したと認識していたことでしょう。その証拠に彼はあとでイエスを売り渡した罪を懺悔しています。
しかし神の側では予定の出来事であったのです。
そんな裏切りの役を担った(担わされた)ユダは救われるのでしょうか。
ユダの裏切りの責任を問うことが私たちにはできるのでしょうか。
できないのではないのでしょうか。誰もがユダの役目を担う者として一方的に選ばれるなら、誰もがそんなことは御免蒙りたいと思うことでしょう。であるなら、私たちは正義感からイエスを裏切るユダはゆるせないと言って一方的に憤ることはできないでしょう。
むしろ神を責めるのではないでしょうか。ユダもまた自分を選んだ神を責めることでしょう。
どうして他の者を選ばなかったのかと。
神は、私たちのその責めを十字架で負われたのです。
イエス・キリストが十字架で責めを負われたがゆえに、ユダの裏切りの罪は贖われ、赦されうるのではないのでしょうか。

2012年03月04日「扉よ、開け」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書7章31~37節

説教要旨:
今日の聖書の箇所に登場してくる人は耳が聞こえず、舌の回らない人でありました。
その人を人々はイエスのところに連れてきたのです。彼は連れられて来たのです。自分の積極的な意志で来たのではないのです。彼はいやいや半ば強制的に連れられてきたのです。
なぜでしょうか。そこには彼の神に対する憎しみや敵意というものがあったからです。
当時の支配的な考えに因果応報思想というのがありました。その考えによると、彼の負っている苦難は彼が過去に犯した罪の罰としてあるというものです。でも彼には今受けている苦難を受けるに価するだけの罪を犯した覚えはないのです。もし神が因果応報の神であるなら、そんな神に対して彼は憎み、敵意すら抱くのではないのでしょうか。
そのような彼をイエスは受け入れていきます。イエスは「お前は神を信じていないだろう。敵意する抱いている。そのようなものを自分は癒すことなどできない」と彼を退けたのではないのです。
イエスは敵意すら抱く者をも受け入れ、癒しの御業をなさるのです。
イエスは彼と神との間にある憎しみと敵意という厚い扉を開け放とうとされるのです。
神の側からしかその扉は開けられないからです。
彼の方で進んで扉を開けるなどということはできないほどに神は憎まれているのです。
彼の心は全く閉ざされていたのです。そんな彼のところにイエスは行き、扉を開ける。
私たちの人間関係において、自分に敵意を抱いている者の心の扉を開けることは、至難のわざであります。その至難のわざがイエスにおいて起こったのです。
それはただ愛によってのみ起こりうるものであります。
イエスはその生涯、愛によって人々の心の閉ざされた扉を開け続けていった御方であります。
私たちもイエスによって開かれねばならない心の状態にいつなるかもしれません。
そんなときイエスの御声「エッファタ、開け」を聞きましょう。