2012年07月29日「主イエスを迎え入れる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書10章38~42節

説教要旨:
マルタとマリアという姉妹が登場してきています。
主イエスを家に迎え入れます。迎え入れた二人は非常に異なった対応をイエスに対してしています。
教会においてもこの対応の仕方で争いが起こります。
イエスはマルタに対して「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」といわれマリアを擁護したのです。
私たちはイエスのこの言葉に、ある意味でつまずきを覚えます。現代社会においては、行動することが何よりも求められます。
いろいろと考え、思案しているよりも、行動せよと言われます。
行動しないことが悪いことであるかのように捉えられます。その価値基準が教会に入ってきてマリアの対応よりもマルタの方が良いのではないのかという考えが教会においてもあります。
しかしそれは間違いです。信仰者はまず主の御言葉を聞くことから行動は始まるのです。
もし神の御言葉が正しく聞かれるなら、そこに神の創造が起こります。行動が起こされ、ある出来事が創造されてまいります。正しく聞かれないなら、神の創造は起こりません。いやむしろ神の御心とは違うことを、反することを人間は創造してしまうのです。
説教者は正しく御言葉を会衆に語るために、まず御言葉を正しく聞くことから始めねばなりません。
説教者が正しく聞けないなら、その聞けない説教者からどうして会衆は正しく聞くことができるのでしょうか。
イエスのマルタに対しての言葉は、会衆のみならず、説教者もまた聞き入る言葉であるのです。

2012年07月22日「キリストが内に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節

説教要旨:
今日の箇所でパウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と申しています。なぜならパウロはキリストとともに十字架につけられたからであります。
十字架で死んだということです。その死んだのはパウロの古い生き方であります。
つまり律法をことごとく守ることで救われる、義とされるという生き方です。
自力によって救いを得るという方向から他力(神の恵み、十字架の恵み)によって救われるという方向へと転換したということです。
私たちは死ななければ新しい命にあずかることはできません。古いままで、新しい命をいただくことはできません。
キリストが内に生きているということにはなりません。私たちの心には、自我という強固まものが住んでいます。
自我は自分の力で救いに達しようとします。もしそれができるなら、キリストが十字架で死なれるということは必要なくなります。
無意味となるのです。
自我の究極の目的は自分が神となることです。神はそのような自我の驕り高ぶりを打ち砕きます。
そのような自我は十字架でキリストとともに死ななければならないのです。
そこではじめて私たちは古い命に代わって新しい命、キリストの命をいただくのです。キリストが私たちの内に生きはじめるのです。
そのキリストの命は復活の命であり、また永遠の命へとつながる命であるのです。

2012年07月15日「罪を赦された幸い」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:詩編32編1~11節

説教要旨:
この詩編では幸いなる人は私たちが通常考える幸いなる人とは違う人が記されています。私たちがこの世的に考える幸いなる人は、物心両面において満たされた人であります。
詩人はそれとは違う人であります。罪の重荷を誰にも打ち明けられずに苦しみ悩んでいるのです。
なぜ彼は神に打ち明けられなかったのでしょうか。それは彼にとって神はとても怖い御方であり、打ち明ければ、神は自分に罰を与えるに違いないと思っていたからです。
神ではなく、誰かほかの人に打ち明ければ良かったのですが、人に打ち明ければ、その人は自分を責めるに違いないゆえに、また世間は彼を冷たい目で見るに違いないとの思いゆえに、なかなか誰にも打ち明けられずにいたのです。そんな中にあって彼は疲れ果てました。
このままでは命の危機に陥ります。そこでとうとう詩人は神へと向かったのです。
どんなに勇気がいったことでしょうか。彼は、神の罰を覚悟で御前に罪を告白したのです。
すると以外にも、神は罪を赦してくれたのです。
彼は人生の危機を脱することができました。
神は憐れみ深い御方であることをイエス・キリストの十字架において私たちに示しておられます。
私たちは躊躇することなく、十字架のキリストへと向かうべきです。キリストは私たちが犯したどのような罪をもすべて贖い、ゆるしてくださいます。キリストに現れた憐れみ深い神を信じていくことで私たちは幾度も幾度も人生の危機を乗り切ることができるのです。
そんな人が幸いなる人であると詩編32編は告げているのです。

2012年07月08日「主の愛の契約」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:申命記7章6~8節

説教要旨:
今日の箇所はイスラエルの神の選びの理由について述べられています。
そこには2つの理由が記されています。一つは「心引かれて」というものです。
この「心引かれて」と言う言葉は、情的な事柄を意味しています。
神はイスラエルの民に感情的に引き寄せられて選ばれたということです。
神も感情というものをもっています。理性だけではありません。
神は弱い者、貧しい者に対して心を動かされ、目をとめる傾向性というものをお持ちであるということです。そこには、弱いがゆえに、貧しいがゆえに、神に頼らざるをえないということがあります。またへりくだり、謙虚にならざるをえないということがあります。ですから選ばれたといっても、そこで驕り高ぶってはならないのです。
神の民として、神に頼り、へりくだり、謙虚になって生きていくことが求められているのです。
しかし民の歴史はそうではありませんでした。神に頼るよりも、偶像に頼り、他の民族に対しては傲慢になり、偏狭な民族主義、選民思想を展開していったのです。
このような民を神は見捨てることもなく、神の民としてなおも保持されておられます。
どうしてでしょうか。それは神との契約ゆえであります。
この神との契約においては、主の愛があります。「心引かれて」の選びは間違うことがあります。しかし主の愛は真実です。相手がどうであれ、どこまでも貫かれるものです。
この主の愛ゆえに、契約はイスラエルの方で破っても、神は破棄するということはありません。
イスラエルの不真実ゆえに、破棄されるということはないのです。
神は契約に関して真実なる御方であります。
私たちの罪いかんに関わらず、神は契約を破棄されないのです。
そのような神の真実、主の愛はイエス・キリストの十字架において私たちに現れています。
神はイエス・キリストを介して、新しい契約を私たちと結ぼうとされておられます。
イスラエルの民と同じように、契約を結んだ私たちの罪の現実がいかに重く、深刻であろうとも、神はキリストの十字架の血潮ゆえに、契約を破棄されることなく、私たちをなおも契約の民として保持されるのです。

2012年07月01日「主が求めるのは憐れみ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書12章1~8節

説教要旨:
今日の箇所はファリサイ派がイエスに安息日をめぐって論争を挑んでいます。
なぜなら弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたからです。
空腹のとき、他人の畑の麦の穂を摘んで食べることは律法でも許されていたことであるのですが、問題は安息日にそれを弟子たちがしたということでした。
ファリサイ派から見れば、その行為は安息日規定に違反する行為であり、許しがたいものであったのです。
イエスはそんな彼らに「主が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とホセア書を引用して言われます。
この憐れみという言葉は憐憫の情などという、どちらかというと上から目線の思いではなく、自らも共に苦しみ、痛むという感覚的なものを含んだものであります。
ということは、イエスは弟子たちの空腹の苦しみを体でもって共有されたということです。
弟子たちが飢餓の絶頂にあったかどうか分かりませんが、もし極度の飢餓ゆえに今日にでも死を招くとなれば、すぐにでも食べさせることは大事なはずです。
それを安息日だから、食べることはまかりならんということになるのかとイエスは問われるのです。
ファリサイ派の人たちは、自分たちの間だけで安息日規定を形式的に厳守しているのならまだいいのですが、それを他人にまで形式的に適用しようとしました。ですから絶えず他人に対して、「彼は(彼女は)律法を守っているかどうか」に関心がありました。守っていないと批判し、糾弾したのです。さらに社会から排除しようとしたのです。
ユダヤの宗教的律法社会の秩序を保とうとしたのです。イエスをはじめ多くの人は彼らのいけにえとなりました。
罪なき者が彼らから罪ある者として裁かれました。
ここに彼らの大きな罪があります。憐れみの心をなくしたとき、私たちも容易にファリサイ派へと転落することを心にとめたい。