2012年07月08日「主の愛の契約」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:申命記7章6~8節

説教要旨:
今日の箇所はイスラエルの神の選びの理由について述べられています。
そこには2つの理由が記されています。一つは「心引かれて」というものです。
この「心引かれて」と言う言葉は、情的な事柄を意味しています。
神はイスラエルの民に感情的に引き寄せられて選ばれたということです。
神も感情というものをもっています。理性だけではありません。
神は弱い者、貧しい者に対して心を動かされ、目をとめる傾向性というものをお持ちであるということです。そこには、弱いがゆえに、貧しいがゆえに、神に頼らざるをえないということがあります。またへりくだり、謙虚にならざるをえないということがあります。ですから選ばれたといっても、そこで驕り高ぶってはならないのです。
神の民として、神に頼り、へりくだり、謙虚になって生きていくことが求められているのです。
しかし民の歴史はそうではありませんでした。神に頼るよりも、偶像に頼り、他の民族に対しては傲慢になり、偏狭な民族主義、選民思想を展開していったのです。
このような民を神は見捨てることもなく、神の民としてなおも保持されておられます。
どうしてでしょうか。それは神との契約ゆえであります。
この神との契約においては、主の愛があります。「心引かれて」の選びは間違うことがあります。しかし主の愛は真実です。相手がどうであれ、どこまでも貫かれるものです。
この主の愛ゆえに、契約はイスラエルの方で破っても、神は破棄するということはありません。
イスラエルの不真実ゆえに、破棄されるということはないのです。
神は契約に関して真実なる御方であります。
私たちの罪いかんに関わらず、神は契約を破棄されないのです。
そのような神の真実、主の愛はイエス・キリストの十字架において私たちに現れています。
神はイエス・キリストを介して、新しい契約を私たちと結ぼうとされておられます。
イスラエルの民と同じように、契約を結んだ私たちの罪の現実がいかに重く、深刻であろうとも、神はキリストの十字架の血潮ゆえに、契約を破棄されることなく、私たちをなおも契約の民として保持されるのです。