2012年07月01日「主が求めるのは憐れみ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書12章1~8節

説教要旨:
今日の箇所はファリサイ派がイエスに安息日をめぐって論争を挑んでいます。
なぜなら弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたからです。
空腹のとき、他人の畑の麦の穂を摘んで食べることは律法でも許されていたことであるのですが、問題は安息日にそれを弟子たちがしたということでした。
ファリサイ派から見れば、その行為は安息日規定に違反する行為であり、許しがたいものであったのです。
イエスはそんな彼らに「主が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とホセア書を引用して言われます。
この憐れみという言葉は憐憫の情などという、どちらかというと上から目線の思いではなく、自らも共に苦しみ、痛むという感覚的なものを含んだものであります。
ということは、イエスは弟子たちの空腹の苦しみを体でもって共有されたということです。
弟子たちが飢餓の絶頂にあったかどうか分かりませんが、もし極度の飢餓ゆえに今日にでも死を招くとなれば、すぐにでも食べさせることは大事なはずです。
それを安息日だから、食べることはまかりならんということになるのかとイエスは問われるのです。
ファリサイ派の人たちは、自分たちの間だけで安息日規定を形式的に厳守しているのならまだいいのですが、それを他人にまで形式的に適用しようとしました。ですから絶えず他人に対して、「彼は(彼女は)律法を守っているかどうか」に関心がありました。守っていないと批判し、糾弾したのです。さらに社会から排除しようとしたのです。
ユダヤの宗教的律法社会の秩序を保とうとしたのです。イエスをはじめ多くの人は彼らのいけにえとなりました。
罪なき者が彼らから罪ある者として裁かれました。
ここに彼らの大きな罪があります。憐れみの心をなくしたとき、私たちも容易にファリサイ派へと転落することを心にとめたい。