2011年11月27日「主の到来の待望」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マラキ書3章1~5節、13~20節

説教要旨:
今日からアドベントに入ります。メシアの到来を待ち望むときであります。
今日のマラキ書には、そのメシアの到来が預言されています。
でも預言されているメシアは怖い裁きを伴ってやってくるように描かれています。正しくない者に対しての裁きは容赦なく臨みます。
神に仕える者と仕えない者との峻別が言われています。
そんな神を前にして私たちは、神の裁きに誰が耐えうるのかと思ってしまいます。
一体私たちは神の御前にあって、正しいと主張できるのでしょうか。主張できる資格をもった者など誰もいません。
誰もが火に焼かれるしかない者であります。
そんな私たちでありますが、クリスマスにやってきたメシアはそうではありませんでした。
愛と憐れみに満ちたメシアでありました。すなわちイエス・キリストでありました。
本来なら罪ゆえに神の御前に滅ぶしかない私たちでありますが、神はそんな私たちを見捨てず救おうとされ、愛する御子イエス・キリストを私たちに与えられたのです。
私たちの罪をゆるしてくださいと神にとりなすことは人間でもできますが、罪を贖い、ゆるすことは人間にはできません。神のみができることであります。
ゆえに私たちは、絶大な権力をもった超人的な人間をメシアとして待ち望むのではなく、罪を贖い、ゆるすメシアを待ち望むのです。そこに私たちの本当の救いがあるのです。
どんなに力をもった人間でも私たちの罪を贖い、ゆるす力はもっていないのです。

2011年11月20日「神は愛なり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの手紙一、4章13節~21節

説教要旨:
18節で「愛には恐れがない」「完全な愛は恐れを締め出します」と言われています。
ここで言われている愛は神の愛です。神の愛には恐れがないのです。
なぜなら神は私たちの罪を贖い、ゆるす御方であるからです。
神は私たちの罪過ゆえに、懲らしめとしての罰を与える御方ではありません。
そのことが御子イエス・キリストの十字架によって示されたのです。
御子イエス・キリストは十字架で私たちに代わって私たちの罪を負われ、罪を贖い、私たちの罪をゆるされました。
だから私たちは恐れなく神に近づくことができるのです。
これがもしそうではなく、私たちの罪に対して絶えず厳しい罰をもって臨む御方であるなら、私たちは神に近づくをことを恐れます。できるだけ遠ざかりたいと思うことでしょう。
そのような神を私たちは愛することができるでしょうか。
神はまず私たちをこよなく愛していることを十字架で示されました。裁くだけの神ではなく徹底的にゆるす神として私たちの前に現われたのです。
私たちはただ漠然と神を愛するのではないのです。十字架に現われた神を愛するのです。
十字架で現われた神を愛するには、神の愛がうちに宿らなければなりません。
それが洗礼において起こります。
またその人のうちに宿る神の愛は神を愛するだけでなく、兄弟姉妹を愛する愛ともなります。
ある人が「神を愛している」言いながら、兄弟を憎むなら、それは神の愛がまだその人のうちに充満していないからであります。あるときは兄弟を愛し、またあるときは憎むという状態であるのです。あるいはある人を愛し、ある人を憎むという中途半端な状態であるのです。
悲しいかな、私たちの現実はそんなものです。でも神は聖霊でもって神の愛を充満させようとされておられます。ですから私たちは悲しい私たちの現実を祈りのうちに聖霊によって変えてもらいましょう。
そのように欲するなら、祈るなら、神は確実に私たちを造り変えてくださるのです。

2011年11月06日「終末の希望」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの黙示録7章1-17節

説教要旨:
天使たちによって額に刻印を押された者たちの数が14万4千人であると記されています。
この数は象徴的な意味で言われているのであって、いかに多くの人々が刻印を押されるかを言わんとしているのです。そしてそれらの人たちは白い衣を身につけて神を賛美していたのですが、白い衣はキリストの十字架の血で洗って白くされたものであります。すべての罪が贖われた証拠であります。御国において私たちは罪を犯すことはなく、白い衣のままで神を賛美するのです。
そして白い衣は罪によって汚れることがないだけでなく、朽ちることのない衣であります。
朽ちることのない白い衣を着せられているということは言い換えれば、永遠の命をいただいているということであります。罪の支払う代価が死であるなら、その罪がすべて贖われるときは、死から私たちは自由にされるということです。すなわち永遠の命が与えられるのです。
そして御国においては、飢えること、渇くこともなく、どのような暑さを襲うことのないのです。
キリストご自身が私たちの牧者となり、命の水の泉へ導き、目から涙をことごとくぬぐわれるのです。
その喜びはどんなに大きいことでしょうか。人生には涙がつきものです。その流した涙はすべて神が拭い取ってくださる。御国では、もはや涙に満ちた人生の道を歩む必要はないのです。
私たちは、とどまるところを知らないかのように流れてくる涙を飲むのではなく、生ける命の水を飲むことになるのです。