2011年08月28日「神の不思議な業」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録8章26節~40節

説教要旨:
フィリポはサマリアでの伝道で大きな成果をあげました。それで彼はもっと大きな成果をあげたいと思っていたことでしょう。しかし神が次に遣わしたのは、伝道の成果などあがりそうにない荒野でありました。人の住まないようなところに行って伝道せよと神は言われるのかと抗議もしたくなりそうですが、フィリポは抵抗もせずにただちに荒野へと向かいました。
すると今度は「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じられます。一体何がそこで待っているかフィリポにはさっぱり分かりません。フィリポは「なぜ馬車を追いかけなくてはならないのですか」と神に問うことなく、命令に従います。
そして追いつき、馬車に乗っている人に出会います。その出会った彼はイザヤ書を読んでいました。
彼はフィリポに言います。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と。
フィリポはここで初めて自分がここへ導かれた理由を悟ります。このエチオピアの高官で、宦官である人に伝道するために、ここに導かれたのだと分かるのです。
そして宦官が読んでいた箇所はイザヤ書53章でありました。まさにメシア=キリスト預言の箇所であります。
伝道するには、どんぴしゃりのタイミングであります。人間の側のタイミングではなかなかこんな具合には行きません。
神の業によるとしか言いようがありません。
そしてフィリポの解き明かしを通して宦官は洗礼を受けることへと導かれたのです。
洗礼のあと、聖霊はフィリポを宦官の前から連れ去ります。
この物語を通して私たちは終始神が主導して宦官の洗礼へと導いたことが分かります。
フィリポはその神の業に用いられたのであります。
神のなせる業には、最初、神は何を意図しているのか分からないことがありますが、最終的には素晴らしい業をなしてくださったことを私たちは見ることができるのです。

2011年08月21日「友なるイエス」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書15章11~17節

説教要旨:
13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない」と言われています。
自分の命を友のために捨てるような人は果たしているのでしょうか。まずいないのではないでしょうか。
聖書はこのような友はイエス・キリストであることを告げています。キリストのみであると言っていいでしょう。
事実イエス・キリストは十字架で自分の命を私たちの救いのために捨てられました。
そのことで私たちは新たな命を得ています。新しい命は十字架の愛の支配の下に生きる命です。
この十字架の神の愛から私たちを引き離すことは何ものもできないのです。
人生においてイエス・キリストを救い主として発見し、イエス・キリストを真の友としては受け入れた人が幸いです。
その人は永遠の命を得ます。この世の他のどんな発見も永遠の命を私たちに与えるものではありません。
また人生のどんな時にもイエス・キリストは共にいてくださいます。共にいて慰め、励まし、癒し、支えてくれています。
人間の友はそうはいきません。いつも共にいることなど不可能なことです。
艱難、苦難の時においても主イエスは私たちと共にいます。むしろ苦難の時こそ、私たちにより近くいまし、私たちを御手において支えてくださいます。そのことで私たちは人生の荒波を乗り越えることができます。
人生の荒波を乗り越え乗り越えしつつ、私たちは一歩一歩永遠の命へと導かれていくのです。

2011年08月07日「キリストを模範に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録7章44~60節

説教要旨:
ステファノは、今日の箇所で、神殿信仰を批判しています。
なぜなら当時の神殿信仰は、神殿が神と同じような位置を占めており、明らかにモーセの十戒の第一戒に違反していました。主イエスもまた神殿信仰を批判し、やがて神殿は崩壊するときが来ることを語りました。その主の批判の延長線上にステファノの批判もあります。
この批判に対して、人々は怒りました。ステファノは身の危険を感じます。
しかし彼は天を見上げ、神の右に立っておられるイエスを見たのです。
ステファノが人の子=主イエスが見えると言うと、人々は耳を手でふさいだのです。
それは聞きたくないことでした、そしてステファノに石を投げつけはじめたのです。
私たちは危機にあるとき、なすべきは天を見上げるということです。主イエスへと目を向けるということです。そしてそこから語られる言葉を聞くということです。
聞きたくない言葉でも耳を手でふさがず、聞くことです。
ステファノはどんな言葉を聞いたのでしょうか。それは主に命を預けるということと、迫害する者たちをゆるすということでした。
普通なら聞きたくない言葉です。もっと違う道を示してほしいと思うのが私たちであります。
でもステファノはそのことを祈ったのです。ですから聖霊の働きなしにはこの祈りはできません。
ステファノに神が働いて、祈らしめているといえるのです。
迫害する者のために祈り、敵を愛することを主イエスは教えられました。その教えがステファノに響いています。
祈りとなって響いています。そしてその響きはパウロにも響き、アッシジの聖フランシスにも、マザーテレサにも、マルチン・ルーサー・キング牧師、南アフリカのマンデラ大統領にも響いています。
私たちも主イエスから発せられる平和の響きを受け取り、他者へと響き伝えていきたい。