2013年10月20日「リスクをとる信仰」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙11章8~12節

説教要旨:
リスクをとることに日本人は消極的であるといわれます。
そのことを裏返せば安全志向である、堅実であるという評価になります。
一方あまりにもリスクを避けることがまさると、事態は前進することなく、問題が先送りされていくということになります。
では信仰においてリスクをどう考えたらいいのでしょうか。
今日の聖書の箇所で「信仰によって」と言われています。
「アブラハムの信仰によって」、あるいは「サラの信仰によって」と言われていないことに注目したいと思います。「信仰によって」と聞くと、何か私たちが所有する信仰によって、その信仰の強さ、深さによってと受け取りがちになりますが、そうではなく、信仰と訳されていますが、誤解されないために「真実によって」と訳すべきでしょう。
それも「神の真実によって」と訳すことで誤解なく受け取ることができるのではないのでしょうか。
つまり信仰においてリスクをとるということは、背後に神の真実があるということです。
神は約束されたことを必ず実現される御方です。その神の真実が私たちがリスクをとる態度において大事になるのです。いや神が約束されておられるなら、その約束の実現に向けて神がリスクを引き受けてくださるはずである。だから私たちは行き先にリスクがあろうと、あえて神の真実に支えられて旅立つことができるのです。神の真実を信じるとき、そこに私たちの信仰が生まれてくるのです。
アブラハムも「行き先も知らずに出発したのです」(8節)。「行き先も知らず」ということは、
かなりリスクが伴います。普通ですと、リスクが高いなら、無茶せず行くことはやめろとなるでしょう。
しかしアブラハムは出発したのです。ここに信仰におけるリスクを考える上で重要な視点が提示されているのです。

2013年10月13日「栄光のイエス・キリスト」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書17章1~8節

説教要旨:
今日の聖書の箇所は、イエスが高い山で光輝く栄光の姿に変わるという私たちには理解できないことが描かれています。
これは一体何を意味しているのでしょうか。
この意味を考える上で私たちは前の章を見る必要があります。
16章でペトロの「イエスはメシアで、生ける神の子です」という信仰告白があります。
それを受けてイエスは自らの十字架と復活を予告されます。さらに16章27節では再臨のことも予告されています。つまりイエスはメシア=救い主であると告白することは、神の子としてのキリストの十字架と復活と再臨を受け入れていく必要があることを告げているのです。
そして十字架も復活も再臨もすべて栄光に満ちた姿であることを今日の箇所は告げているのです。
ペトロが否定した十字架においてさえ、それは栄光の姿であることということです。
要するに、イエス・キリストは昨日も今日も明日も変わりなく、栄光に満ちた神の子であるということです。
それゆえに5節では「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」との御声が弟子たちに発せられたのです。これに聞けとは、イエス・キリストに聞けということで、それはキリストの言葉と行いを倣えということです。モーセでもエリヤでもないのです。
私たちはキリストの言葉を聞き、行うことで、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていくのです」(第2コリント、3章18節)。つまり聖化されていくのです。
聖化が行われるには、私たちは御言葉を正しく聞かねばなりません。正しく聞かれないならば、御心に適った行いもできません。正しく聞かれたならば、そこには必ず聖霊が働いていますから、主のご意志を行う者へと造り変えられるのです。イエス・キリストの栄光を聖霊において私たちは受け、日々キリストと同じ姿に造り変えられていくのです。
その完成を私たちはキリストの再臨のときに受けるのです。