2011年03月27日「抵抗と思い煩い」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ペトロの手紙5章6~11節

説教要旨:
9節では「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」と言われています。
信仰にしっかり踏みとどまるといっても、自分の信仰はとても弱いものであります。
自分の信仰では悪魔に打ち勝つような信仰とはなりません。自分の信仰とは、言い換えれば、それは自力本願の信仰です。そんな信仰で悪魔に抵抗などできるのでしょうか。できません。
自分の信仰、つまり自力の信仰ではなく、イエス・キリストに踏みとどまることが大切なのであります。
イエス・キリストに踏みとどまることで始めて悪魔に抵抗できるのです。
イエスに踏みとどまるとは、言い換えれば「神に何もかもお任せする」(7節)ことです。
神の力、主イエスの力に頼ることです。他力信仰です。神の力強い御手の下に自分を置くことです。
そのことで私たちは思い煩いから解放されるのです。
自力信仰が他力信仰に勝るとき、私たちには思い煩いが増えます。
それは悪魔の餌食となりがちです。そうならないためには、たえず主イエスの下に踏みとどまり、主イエスに私たちに代わって悪魔と戦ってもらうことが大事であるのです。

2011年03月13日「和解の命」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教要旨:
パウロはフィリピの教会に対して「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と語ります。
パウロはその根拠を主イエス・キリストに置こうとします。
私たち人間の間で、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにすることは困難なことであります。
そのような姿を私たちがとるには、イエス・キリストを必要としているのです。
私たちの自我は、他者に対して利己的にそして高慢な心、虚栄心をもって振る舞い勝ちです。
そのような自我は砕かれる必要があります。その自我を砕くのが、キリストの十字架であります。
フィリピの教会は、パウロの語る十字架の福音を聞いて、キリストを受け入れた者同士です。
主イエス・キリストの十字架の血潮による罪の贖い、罪のゆるしを信じ、受け入れた者であります。
であるからこそ、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにすることができるはずであるとパウロは語るのであります。神の憐れみを受け、十字架を受け入れた者であるから、そうなるはずであるとの思いが強くあるのです。
そして具体的にキリストの姿を見せてまいります。それは6節以下であります。
特に私たちの救いのために十字架にまでへりくだった主イエスの姿を見るようにと説いていきます。
私たちも互いに主イエスのように自分を無にし、へりくだることで、互いに和解し、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにする者となりたい。

2011年03月06日「主は生きた石」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ペトロの手紙一、2章1~10節

説教要旨:
今日の箇所では、キリストは恵み深い御方であることと、生きた石であることとが強調されています。
私たちは、恵み深い御方イエス・キリストの味を知った以上、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口などの味とは、本来無縁にならねばならないのですが、罪人である私たちは悲しいかな、それらの罪を犯してしまいます。でも罪人だからしょうがないじゃないかと、それで終わっていたら、私たちは、今も復活し生きたもうて教会の礎となっているイエス・キリストに用いられる生きた石にはなれません。
ましてや生きた石として互いに組み合わされて教会を霊的な家に造り上げることなどできません。
私たちの毎日は罪を犯す生活でありますが、一方ではキリストの恵み深い味も知っている者であります。その恵みの中に罪の赦しの恵みもあります。
私たちは、キリストの十字架の血潮によって罪贖われ、罪赦され、聖化の道へと再び進むことができます。私たちが生きた石となるためには、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口といった罪が、私たちのうちから十字架の血潮によって洗い清められ、取り除かれ、それらに代わってキリストの思いを宿し、御心を行う者へと造り変えられる必要があります。その場がキリストのからだである教会です。
私たちは毎週教会に来て、主の罪の赦しの恵みをいただくことで、生きた石として主によって用いられ、霊的な家としての教会を造り上げていくのです。そして霊的な家を造り上げるだけでなく、キリストの恵みの味を広く世に伝えることも、主によって生きた石として用いられることに含まれているのです。