2011年12月25日「闇に光が」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書2章1~12節

説教要旨:
今日の箇所で羊飼いにメシアが生まれたことが告げられました。
不思議なことです。当時の常識から言えば、どうして羊飼いなどにメシアの誕生がまず告げられねばならないのか理解に苦しむところであります。
なぜなら彼らは律法を守ることができなかったので、当時の社会において罪深い者とみなされていたからであります。
律法をどれだけ守ったかどうかで罪深さの程度が測られていたからです。
清いメシア誕生は、もっと正しい人たちのところで告げられるべきであると考えられていたからです。
当時の社会においては正しい人とはファリサイ派の人たちが代表的な人でありました。
またファリサイ派も自分たちに主の栄光が現われ、自分たちにメシア誕生が告げられてしかるべきである自負していたのです。
しかし神の御心はそうではありませんでした。羊飼いたちは自分たちは神の救いから遠い存在として思っていました。自分たちは闇の中に生きる者として苦しんでいました。
しかし世間から罪深いとみなされている羊飼いたちのところにメシア誕生が告げられ、主の栄光が彼らの上に照り輝いたのです。
神の栄光は高慢な心をもった者にではなく、自らを空しくする者の上に照り輝くのです。

2011年12月18日「聖霊による受胎」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書1章18~25節

説教要旨:
今日の箇所は、聖霊によってメシア(救い主)がマリアの胎に宿ったことが告げられています。
私たち人間の命は聖霊によって命を与えられるのですが、なぜそのことがわざわざ今日の箇所で記されているのでしょうか。
マリアが処女であったから、その処女に人間の命が宿ることは人間わざではなく神のわざ(聖霊のわざ)であることを言うためであるのでしょうか。
それもあるでしょう。
しかしもっとも重要なことは人間の胎を通って神の御子イエス・キリストはお生まれになられたということではないのでしょうか。それこそが聖霊によって宿ったと言われる大切な意味ではないのでしょうか。
主イエスは神の子であるから、人間の胎など通らなくても、この地上に登場することもできたはずです。むしろそんな無駄な時間をかけるのではなく、いきなり30歳ぐらいの姿で登場し、いきなり神の国の福音を宣べ伝えてもよかったはずです。しかしそうではなかったのです。
フィリピ書2章7節にはキリストは「自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現われ」と記されています。人間と同じ者になった、人間の姿で現われたということには、他の人間と同じように、人間の胎を通って生まれたということが含まれています。
それほどにインマヌエルの神であるのです。「神は我々と共におられる」という凄さは母の胎にまであてはまることとしてあるのです。罪深い人間の内部にまで宿ろうとされる神、それほどまで私たちと共におられようとされる神の恵み、それこそ聖霊によって宿ったと言われなければならない奇跡がメシア誕生にはあるのです。

2011年12月11日「戸をたたく神」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの黙示録3章14~22節

説教要旨:
待降節は主が来るのを待つときですが、今日の箇所ではすでに主は来ています。
主は遠くに立って私たちが主へと来るのを待つのではなく、すでに私たちのところに来て戸をたたき、私たちが開けるのを待っておられるのです。
それなのに私たちは、なかなか戸を開けようとはいたしません。なぜなら戸をたたいている方が主であるとは信じないからです。主が「わたしは救い主である」と宣言しているにもかかわらず疑っているからです。
私たちがなかなか戸を開けないにもかかわらず、主は辛抱強く戸をたたき続けているのです。
私たちが戸をたたく方が主であると認め、信じ、戸を開けるのを待たれているのです。
主が私たちの拒絶にもかかわらず、なおも戸をたたき続けるのは一重に私たちを救おうとする主の愛からであります。
私たちを愛してやまない主の熱情があります。そんな主の熱情、愛に私たちが打たれるまで主はたたき続けるのです。そして私たちが主の熱き愛に気付き、戸を開け、主を迎え入れるとき、私たちに新しい命が注がれます。その命は主の愛に応える私たちの熱き愛を内に秘めた命です。
主の愛に私たちが燃やされるのです。

2011年12月04日「神が目を留めてくださる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書1章46~56節

説教要旨:
マリアは主を讃美しています。それには理由があります。
それは主が「目を留めてくださった」からであります。
待降節は主が目を留めてくださっておられるを確信し、そして目を留めてくださっておられるだけでなく、実際に私たちのところにやってきて、私たちと共におられることを待つときでもあります。
目を留める仕方もいろいろあります。人の弱点や欠点ばかりを探すために目を留める仕方もあります。主はそうではなく、愛ゆえに目を留めるのです。
主の目の留め方は愛ゆえであります。救うことを目的として目を留めるのです。
なぜ主はマリアに目を留められたのでしょうか。それはマリアの低さにあります。
マリアの低さはまず身分的な低さにあります。
差別され、抑圧された女性の一人としてのマリアの姿があります。
ただそれだけでなく、その心においても主に低くぬかずく者でもあったのです。
そのことでマリアは主によって目を留められ、高められるのです。
主は低くぬかずく者のところに来て共に住まわれます。
主が共に住まわれることで、私たちは天へと高められるのです。
一方、主は驕り高ぶる権力者を低くされます。驕り高ぶる者の様は神のごとくなろうとする様であり、それは主の御心ではありません。ゆえに主はその人を打ち砕きます。
待降節にあって、私たちもマリアのような姿勢で主のご降誕を待つ者でありたい。