2010年12月26日「神に賭ける人生」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書2章15~20節

説教要旨:
御子イエス・キリストをこの世に遣わすということは神にとって大きな賭けといって、いいほどのことでありました。なぜなら御子イエスの道は十字架に通じるものであったからです。十字架において私たちの罪を贖い、救うという神の意図が本当に私たちに受け入れられるのかどうか分からないからであります。
十字架によって私たちが罪を悔い改め、神へと立ち帰るかどうか分からないことで、あったからです。でもあえて神は御子をこの世に遣わし、十字架へと御子を渡したのです。
結果は世界中で多くの人が十字架での贖罪を受け入れ、救いにあずかることができました。
私たちは、この神の賭けに応答する形で、私たちの人生を神に賭けることが必要であります。
でもその賭けはこの世の賭けとは違い、100パーセント当たる賭けであります。
それも無償で当たるものであります。決して無駄な賭けではありません。当たる確立が低い賭けではありません。神はいい加減な思いで、御子を私たちのところへ贈ってくださったのではありません。
独り子イエス・キリストを十字架に渡すほどに私たちを真剣に愛しているのです。
私たちは、御子が歩まれた道を御子と共に歩む人生に賭けていきたい。その人生のゴールは永遠の御国であり、永遠の命であることを覚えたい。そしてそれは決して外れることのない賭けであることも覚えたい。神の約束は、必ず成就することを信じて。羊飼いたちはその道を歩み始めているのです。

2010年12月19日「飼い葉桶の中に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書2章8~14節

説教要旨:
神の御子イエス・キリストは、生まれたとき、飼い葉桶の中に寝かされていました。
ここにクリスマスの秘儀があります。メシア(救い主)は、飼い葉桶の中にまで私たちとともにおられることが、神の御心でありました。それがクリスマスの出来事です。
私たちは、神のごとくならんと、神へと上昇しようといたします。でもそれは無駄な企てあります。
そのような者を打ち砕くのが神の御心であります。神の御心は飼い葉桶にまでへりくだることであります。飼い葉桶という神のへりくだりに神の栄光があるのです。
そしてその神のへりくだりと共に生きようとする人々に平和あれということがクリスマスのメッセージであります。
この世界には、権力者はじめ、多くの人の驕り高ぶりが満ち満ちています。平和は驕り高ぶり、傲慢な心からはやってきません。飼い葉桶の中の御子イエス・キリストの姿に平和の秘儀は潜んでいるのです。
私たちは飼い葉桶のメシア=イエス・キリストに合わせられて、へりくだって主が歩まれた道を共に歩んでいこうではありませんか。

2010年12月12日「恵みのとき」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書1章26節~38節

説教要旨:
今日の箇所はいわゆる「受胎告知」と呼ばれている箇所であります。
天使からメシア=救い主を宿すといわれて、マリアは当惑します。当惑すると同時、苦悩が始まります。まだヨセフとは婚約中の身でありながら、子を宿すということは、ヨセフの子ではないとの疑いをヨセフに抱かせるに十分なものでありました。
マリアに対する不信の心をヨセフに芽生えさせていくことになる事柄であります。
また世間からも白い目で見られることの覚悟を必要としました。さらには最悪の場合、姦淫の罪で石打ちの刑に処せられることも覚悟することでありました。
ですから当初はとても喜ばしいことだとは思えなかったのです。
むしろ今後のことを考えたら相当の苦難を覚悟する必要さえあったのです。
でも最終的に天使のお告げを神の御心として受け入れていったのであります。
当初はとても神の恵みとして受け入れることができないマリアでありましたが、メシアを宿すことが神の御心であると納得し、受け入れていったのです。
私たちも当初恵みであるとは分からずに、いやむしろこんなの恵みではないと思い、神につらく当たることがありますが、それがたとえ苦難を伴ったものであっても神の御心としてあると分かると、恵みとして受け入れていくことができます。
またそのときは、こんなの恵みではないと反抗していても、後から振り返ってみると恵みであったなあと思うことがあるのではないのでしょうか。
私たちはそのときどきにおいて、これが恵みであるとはなかなか分からない者でありますが、そこに神に御心があるなら、それはやはり恵みであるのです。神の御心は私たちの思いを超えて働き、当初マイナスに見えることも最終的にはプラスへと変えてくださるのです。
神の恵みとはそういうものであることを覚えたい。目先のことだけで判断できないのです。

2010年12月05日「メシアはイエスか」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書11章2~14節

説教要旨:
獄中にあって苦難を負えるバプテスマのヨハネは主イエスに問います。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」。
この問いの背後にはヨハネの信仰の迷いと揺れがあります。自分はナザレのイエスはメシアである信じ、その道備えをしてきたが、果たしてイエスは本当にメシアであるのだろうかという疑問であります。何故自分を救いに来てくれないのかという問いであります。
主イエスは答えます(5節)。そのイエスの答えはすべてイザヤ書からの引用であります。預言者イザヤを通して預言されたことが今主イエスにおいて実現しているではないか。どうしてあなたは信じられないのか。主イエスにつまずかない人は幸いである。
ヨハネは獄中の苦難の中にあって、イエスをメシアとして信じたいが、信じきれないところがまだ残っていたのです。それは自分が獄中にいるままで解放されていないからです。メシアの道備えをしてきた自分がどうして獄中で死ななければならないのか。一刻も早く獄中から出られるようにしてくれてもいいではないか。
このようなヨハネの状態は私たちの状態でもあります。それは洗礼を受ける前にもありますし、洗礼を受けたあとにおいても起りうる状態であります。
それは苦難の中にあるとき、苦難がなかなか解決されないとき、苦難に耐え切れなくなるとき、起こりうることであります。
メシアはどこにおられるのか。すぐにでもメシアが来て自分を救ってほしい。それは切実な願いであります。
でもメシアは来られない。そこでつまずくことがあります。
私たちはここで視点を転じる必要があります。メシアが来ているかどうかということを自分のところの範囲だけで判断しないと言うことです。
目を他に転じることです。巷では多くの人がイザヤ書において預言されている癒しなどの神のみわざにあずかっていることを見るべきであるのです。
自分のところにはまだ来ていないかのように見えるが、すでに主イエスは来られている。そのことを信仰においてしっかりと見るべきである。
信仰なしには、そのことを見ることはできません。聖霊において主イエスはどこにでも臨在し、私たちの苦難を共にし、共に担い、苦難からの解放へと神の国の道を進めておられます。目には見えないけれども、密かにメシアとしてあなたのところにもやって来ているのです。

2010年11月21日「ぶどうの木に繋がる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書15章1~10節

説教要旨:
今日の箇所ではイエス・キリストにつながることで豊かに実を結ぶことが言われています。
どのような実を結ぶのでありましょうか。それはひとつには、聖霊の実であります。
パウロがガラテヤの信徒への手紙5章22節、23節で言っている「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」などの実が聖霊を通してキリストによって結ばれていきます。
ただそれだけではなく、伝道の実も結ばれることが言われているのです。
その伝道の実が結ばれるためには、またキリストにつながることが必須のこととなるのです。
キリストにつながらなくては、私たちは何もできないのです。
キリストにつながることで私たちにはキリストの愛が注ぎ込まれていきます。キリストの愛とは要するに十字架の愛であります。
十字架の愛なしでは豊かに実は結ばれることはないのです。主イエスは「わたしの愛にとどまりなさい」と言われています。
わたしの愛とは十字架の愛です。神と敵対して歩んでいた私たちをもなお愛し、十字架で罪ある者のために罪を代わって負われ、贖なわれた愛にとどまるのです。それは山上の説教で説かれた「敵を愛しなさい」、「迫害する者のために祈りなさい」という主の掟、主の御言葉を守ることです。
この御言葉なしには、豊かに実を結ぶことはないことを覚えたい。

2010年11月14日「永遠の命を得る」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書3章16~21節

説教要旨:
「神は独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(16節)といわれています。
神が愛であることの証明的な出来事として、御子イエス・キリストの十字架があります。
愛には犠牲が伴います。どれほどの愛であるかはその犠牲を見れば分かるものです。
神は独り子を十字架に渡すほどに私たちを愛されたのであります。
かけがえのない独り子です。二人といない子供です。その独り子を単に私たち人間に養子に出したという程度ではないのです。十字架の死をもってしてまで私たちを救おうとされたのです。神と御子イエス・キリストとは一体です。御子の十字架での苦しみは神の苦しみであります。十字架での悲しみ、嘆きは神の悲しみ、嘆きであります。
そのことは私たちと同じような苦しみ、悲しみ、嘆きを味われて、私たちと共にあることで愛を示されたのです。それほどに私たちに身近に肉体でもって愛を示されたのです。
また罪なき御子が十字架で苦しみ、死なねばならないということは、まことに不条理であります。
しかしその不条理を敢えて引き受け、神自らが世の人から攻撃されることを厭わずに、
十字架に御子を渡すことで、私たちを救おうとされたのです。そのように世を愛されたのです。
この世は神に反抗的であります。神の御心に従うこと少ないものであります。罪深い世であります。そのような世の行きつく末は滅びであります。
神はそのことに耐え難く、なんとしてでも救おうとされ、その代価を御子の十字架で支払われたのであります。そのことにより永遠の命の道が切り開かれたのです。
「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」であったのです。
御子イエス・キリストを信じ、受け取るとき、私たちはキリストの光の中を歩き始めます。
そしてその光に導かれてたどり着くくゴールは神の永遠の御国であるのです。

2010年11月07日「本国は天国にあり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章12~4章1節

説教要旨:
「わたしたちの本国は天にあります」と言われていますが、天とは神さまのおられるところであり、神の御心が100パーセントなっているところであります。そして御子イエス・キリストがおられるところであり、そこに私たちは属しているということであります。私たちの最終的な帰属はキリストにあるのです。
ですからこの地上に生きる私たちは、キリストの支配のもとにあると言ってもいいのです。パウロは「自分がキリストによって捕えられている」(12節)と言っています。このことはキリストの支配のもとにあるだけでなく、キリストによって支えられ、守られて生活をしていることを意味します。
キリストの支配は目に見えぬ形で聖霊を通して行われていきます。
聖霊が私たちに注がれる形で神の御心はこの地上で行われていきます。
私たちは「主の祈り」において「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。
祈るとき聖霊が注がれ、この地に御心がなるように私たちは神によって用いられていきます。
私たちの本国は天にあるからといって、この地のことがどうでもいいのではありません。
御心がこの地でもなることは神の喜ばれることであります。
また一方で、私たちは、本国が天にあることで、この地上のものを相対化する自由を得ます。絶対化からの自由を得ます。
相対的なこの世のことに余りにも固執してしまう、あるいは余りにも心を奪われてしまいますと、本国が天ではなくなってしまいます。
それは、この世に宝を積むことになります。
また一方この地上のものに無関心でありますと、これも本国が天でない状態になっていくのです。私たちは本国から派遣されている
キリストの使者であります。御心が地でも貫徹されるために使者として用いられていくのです。天に宝を積む生き方こそが私たちの生き方であるべきです。
天から派遣された者はまた天へと帰る者でもあります。本国へと帰るのです。そのときはいつか。それはキリストの再臨のときであります。
御国の成就のときであります。それまで私たちはまず神の国と神の義を求め、天に宝を積む歩みをするのです。

2010年10月31日「キリストの権威」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マタイによる福音書9章1~8節

説教要旨:
今日の箇所は中風の人の癒しの物語であります。
主イエスによってこの人は癒されるのですが、主イエスはこの人に罪の赦しを宣言しています。
このことが律法学者に問題とされます。なぜなら罪を赦す権威をもっているのは神だけだからです。
律法学者は主イエスを神とは見ていません。ですからイエスの権威を問題にしているのです。
そして権威をもっていないイエスが罪の赦しを宣言するなどということは、神を冒瀆するものと見るのです。
権威といえば、律法学者も当時の社会にあっては宗教的権威をもっていました。
でもその権威は神から直接来る権威ではありませんでした。
この世の宗教的権力によって生み出される権威であり、権力を笠に着た権威でありました。
一方の主イエスの権威は神から直接来る権威であり、その権威は霊的なものでありました。
この世の権力を盾にした権威ではありませんでした。
霊的な権威であるがゆえに、癒しを伴い、また罪の赦しを宣言することができたのです。
世には様々な権威と称されるものがありますが、それらの多くは、神に由来する権威ではありません。
霊的な権威ではないですから、いつかその権威が崩れ去るときがやってきます。
私たちが信頼すべき権威は神の権威、キリストの権威です。私たちが服従すべき権威は神の権威、キリストの権威です。人間が作り上げる権威ではありません。
キリストの権威に服従するとき、中風の人と同じように、私たちには自由と命が与えられるのです。

2010年10月24日「試練と誘惑」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヤコブの手紙1章2~8節、12節~15節

説教要旨:
今日の箇所で、試練と誘惑が取り上げられています。
まず試練ですが、「この上ない喜びと思いなさい」と言われています。
通常試練は皆避けて通りたいものであります。それを喜びなさいと言われますと抵抗を覚えるのではないのでしょうか。なぜ試練に出会うとき、喜びなさいと言われているのでしょうか。それは神から来るからです。ただ試練だけが来るのではなく、主イエスとともに来るからです。また主イエスが試練とともにおられるから、それは喜びとなるのです。
また主がともにいることで試練を忍耐することができるのです。もし主がいなければ、私たちは大きな試練に耐えることができないことになるのです。
私たちは試練の中にあって、主イエスの臨在を祈り求めるべきであります。いささかも疑わずに祈り求めるべきであるのです。この御方こそが試練を忍耐する鍵となるのです。
さらに誘惑ですが、誘惑は神から来るものではありません。それはサタンから来るものです。
サタンは私たちを神から引き離すために一つの手段として誘惑を利用します。
サタンの誘惑は私たちの欲望を喚起し、欲望の最大限化を図ろうと臨んできます。
そして私たちが欲望を自分でコントロールできないほどになると、そこに罪が生まれます。
さらに最悪の場合は死に至ることにもなるのです。
この誘惑に打ち勝つには何が必要なのでありましょうか。それは神より私たちに与えられている完全な賜物であるイエス・キリストであります。40日間にわたる荒野でのサタンの誘惑に打ち勝たれた主イエスが必要なのです。主が私たちを誘惑から守ってくれるのです。
ですからもし主がいなければ、私たちはサタンの狡猾な誘惑に唆されて、罪を犯してしまうのです。
試練のときも、サタンの誘惑のときも、どちらの場合も私たちには主イエスが必要なのです。

2010年10月17日「主イエスの焼き印」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節

説教要旨:
ガラテヤ教会の人々の間では、パウロの説いた福音から離れていくということが起こっていました。
それは律法の行いと割礼の遵守によって救いを得るというものでありました。
特に、割礼の遵守をめぐっての問題は迫害と関係していました。割礼はユダヤ人の誇りでありました。
神の選びの民としてユダヤ人の誇りの目に見えるしるしでありました。
それを否定することで、ユダヤ人から異端として迫害を受けることは目に見えていました。
だから迫害を避けるために割礼を異邦人にも施すということをしていたのです。
そこでパウロは、もしそうであるなら、キリストの十字架はどうなってしまうのか。
十字架の恵みをあなたがたは無にするのかと鋭く問うのです。
迫害という苦難を避けるために、十字架の恵みを台無しにしてはいけないのだ。
キリストのための苦難こそ、キリストの十字架に私たちが結びあわせられる恵みの出来事であり、キリストもまた私たちと共に苦しんでおられるのであるから、そのことを誇りなさいとパウロは言うのです。
パウロ自身、数々の迫害に遭い、そのことでいわば目に見えないイエスの焼き印を受けていますが、
それはパウロにとって恵みであり、誇りであります。
パウロは迫害という苦難を通して、キリストの恵みに触れていきました。
私たちも迫害を避けるのではなく、迫害ということを通して働くキリストの恵みを豊かに受けていく信仰者でありたい。

2010年10月10日「イエスこそ真の隣人」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ルカによる福音書10章25~37節

説教要旨:
今日の箇所は有名な良きサマリア人のたとえであります。
主イエスは今日のたとえを通して、一体誰が真の隣人であるのかを私たちに問うておられます。
私たちは距離的、空間的意味合いで隣人を考えることもあります。でもそれは真の隣人でないこともまた多いのです。また私たちは、心情的な近さ、民族的近さ、文化的近さ、宗教的近さなどを考慮に入れて、隣人を考えることもあります。
でもサマリア人のたとえを通して、主イエスは、そんなところに真の隣人はいないことを示しています。
距離的近さから言えば、サマリア人は確かにユダヤに隣接した地域に住んでいたということで隣人でありましょう。
しかしユダヤ人から見れば、とても隣人とは思えない人たちでありました。
隣人という範疇にはなかったのです。なぜならば彼らは確かに距離的近さ、また宗教的、民族的にはある程度の近さはもっておりますが、宗教的、民族的には純粋性を失っており、穢れた人たちであるとの認識をもたれていたのです。サマリア人に対しての近親憎悪的な感情というものがユダヤ人の間にはあったのです。
穢れた者と交われば自分も穢れるとの考えのもと、とても交わりの対象とはみなされない人たちであったのです。
そんなサマリア人が追いはぎに襲われ半殺しになっている旅人の助け主となったのです。
祭司を含め同胞の誰からも助けを得ることができない状況で、普段とても隣人とは思われないサマリア人が助け主となったのです。
このサマリア人は実はイエス・キリストを示していることを私たちは覚えなければなりません。
主イエスこそ、誰も助けてくれる人がいない中にあって、瀕死の重傷を負った私たちを見つけ、介抱し、救ってくれた御方であります。その主イエスこそが私たちの真の隣人であります。
主イエスは当時のユダヤ人からは神を冒涜するものとして嫌われました。また穢れた人たち(罪人)とみなされた人たちと進んで交わることで、主もまた穢れたものとみなされました。
しかしそんな主イエスこそが、私たちの真の隣人となってくれるのです。

2010年10月03日「今がそのとき」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ヨハネによる福音書4章16~30節

説教要旨:
主イエスはサマリアの女と出会っています。その出会いは女の生き方を転換させるに足るものでありました。
女はいままで幾度も結婚し、そして離婚してきました。どこに彼女の問題があるのでしょうか。
彼女の性格に問題があるからなのでしょうか。それとも相手の夫に問題があったからなのでしょうか。
夫に問題があったとしても、どうしてそのような問題のある男性と女は結婚をしたのでしょうか。
イエスは女の生き方に問題ありとみました。
聖書では、結婚は神とイスラエルとの契約関係の類比において考えられています。
神とイスラエルの「わたしとあなた」という人格的関係の類比的関係を男と女の結婚関係において見ているのです。
この女性が幾度も結婚に失敗しているのは、結婚の根幹に関わるところにあるとイエスは見たのです。
それは「あなたは何を礼拝しているのか」ということであります。何を礼拝するかということは何を信じるかということであります。
彼女の信仰が問題とされているのです。彼女の信仰の対象は場所です。礼拝すべき場所はゲリジム山かエルサレムかと女は主イエスに問うています。場所信仰はある意味で偶像礼拝です。
神との人格的交わりはそこにはありません。そのような信仰では、結婚相手との関係も人格的関係を結ぶことができないのです。それでは結婚は長続きしません。
山や神殿にのみ神は臨在する御方ではありません。神はある特定の場所だけにいるわけではありません。
私たちが霊と真理でもって礼拝するとき、神はどこにでも臨在されるのです。
そして今朝も私たちが霊と真理でもって礼拝するとき、神は確かに臨在されており、まことの礼拝が神に献げられているのです。

2010年09月19日「愛によって造られる」渡辺敏雄牧師

説教箇所:エフェソの信徒への手紙4章1~16節

説教要旨:
今日の箇所は、「キリストのからだ」としての教会の成長について述べられています。
まず聖霊による一致が語られます。私たちはバラバラでは一致をえることはできず、成長もありません。
一致をえる上で聖霊の働きが重要になります。この聖霊は愛と言い換えてもいいでしょう。
なぜなら「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマの信徒への手紙5章5節)からであります。
さらにその一致は単色の一致ではなく、多色の一致であります。皆違う色でもって神から与えられた賜物を有機的に生かすことで生まれる一致であります。各自が与えられている賜物が有機的に補い合い、組み合わされていくとき、教会の成長があります。
さらにその賜物を「キリストのために」用いるということが肝要であります。
「誰かほかの人のために」ではなく、すべての賜物が頭であるキリストを目指して用いられていくとき、教会の成長があるのです。
そして何より重要なのは愛であります。愛なき教会成長は健全な成長ではありません。
私たちは、数量的、外的な成長のみならず、非数量的、内実的な成長を愛によって図っていくことも大切であることを覚えたい。

2010年09月12日「究極の出会い」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ヨハネによる福音書1章35~51節

説教要旨:
今日の箇所はいろいろな出会いが記されています。
人間と人間との出会い、そして人間とイエス・キリストとの出会いがあります。
私たちの人生においても様々な出会いがあります。とくに人との出会いは、その人の人生に大きな影響を与えます。でも人間同士の出会いは限界をもっていることを私たちは知らねばなりません。どのような限界があるのでしょうか。
究極の限界は死であります。私たち人間は皆死から免れることはできません。
人間同士の出会いがどんなに素晴らしい出会いであっても、それはいつか終わりがあります。
また人間の救いをもたらすものではありません。特に死から救われるには、私たちはイエス・キリストとの出会いを求めねばならないのです。
この御方に出会うしか私たちは死から解き放たれることはないのです。
なぜなら主イエスは、罪と死に打ち勝ち、復活され、私たちに永遠の命を約束されておられるからです。
さてキリストがナタナエルに語られたように、実は私たちも神によって知られているのです。
私たちが求める前に、キリストに実際に出会う前に、神は私たちを知っておられ、私たちをキリストを通して救いへと導かれようとしているのです。
そのことが私たちには見えないなくとも、私たちはすでに救いへと招かれているのです。
私たちはすでにキリストにあって神に見い出されているのです。

2010年09月05日「究極の問い」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書16章13~20節

説教要旨:
主イエスは「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちに問いかけます。
ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。
すると主イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。
この主イエスの言葉は一見ペトロの上に教会を建てると言われているように思われますが、そうではなく、信仰告白があるところに教会が建てられるという意味であります。つまりナザレのイエスはメシア、救い主であり、生ける神の子であるとの告白があるところに教会が建つのです。しかし教会の土台はあくまで主イエス・キリストであります。キリストという岩の上に教会が建ち、そこにキリスト告白があるとき、教会が始まるのであります。
ナザレのイエスは単にメシアというだけにとどまらず、生ける神の子です。
人間であり神であります。神であるから、私たちの救いの岩になり、教会の土台となるのです。いかに能力に秀でた人間であっても、私たちの救いとはなりえません。
また教会の土台ともなりえません。
主イエスは、私たちの罪を打ち砕く岩であり、また一方では私たちの罪によっても破壊されない岩であります。それゆえに死によっても破壊されない岩として私たちに臨んでいます。むしろ命を与える岩であります。この岩の上に私たちの人生を築くこと、また教会を建てることが何よりも大事なことであるのです。

2010年08月29日「福音を恥とせず」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ローマの信徒への手紙1章16~17節

説教要旨:
パウロは「わたしは福音を恥じとしない」と言っています。
その理由として「信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と語ります。
神の力であるから、恥としないのです。逆に言えばもし人間の力であるなら、恥であるといえます。
神の力と並んで人間の力が必要であるなら、福音とはならないのです。
福音は徹頭徹尾他力本願であるから、福音(喜ばしい訪れ)であるのです。
私たちの努力や修行で救いを得るものではないのです。では何によって救いを得るのか。それはキリストの十字架によるのです。神から差し出されているキリストの十字架を受け入れるのです。イエス・キリストが私たちの罪の贖いのために、私たちに代わって十字架につくことで、私たちの罪は贖われ、赦されるのです。ただただ神の恵みによるのです。
それが福音であります。パウロはかつて自力本願による救いを追求していました。でもそこに平安はなかったのです。どれだけ努力すれば救いに到達するのか。どれだけ修行すれば救いに到達するのか。
それが分からないということは不安になります。そうではない、ただ十字架の恵みを信じ、受け入れなさいとの福音によってパウロは平安を得たのです。
さらにパウロは「福音には、神の義が啓示されています」と語ります。
神の義とは何でしょうか。神の正しさであります。神の正しさは福音に啓示されているのです。
福音を言い換えれば、キリストの十字架であります。神の義は十字架に啓示されているのです。
神との不義なる関係に立つ私たちは、本来なら神によって罰せられてもおかしくないのですが、
神はそれをせず、代わりに愛するひとり子イエス・キリストを十字架に渡し、私たちの罪を贖われたのです。
神の義がここにあるのです。救いがあるのです。ですからパウロは「福音=十字架を恥としない」と言っているととることができます。恥としないどころが十字架を誇る者であったのが、パウロであります。
なぜならパウロの人生は十字架によって180度転換し、十字架の恵みのもと喜びと平安に満たされ生きることができたからなのです。

2010年08月22日「神殿としてのキリスト」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ヨハネによる福音書2章13~22節

説教要旨:
今日の箇所はいわゆる「宮清め」と呼ばれる物語です。
エルサレムにある神殿を主イエスは清められたのですが、当然清めるだけの理由がありました。
それは当時の神殿信仰に問題がありました。
ただ単に神殿を商売の家にしているからという理由だけでなく、神が住まう場、神と出会う場としての神殿が形骸化していたという
点にあります。主イエスの神殿を思う熱意が宮清めを行わせたのです。
そして主イエスは神殿の本来の意味を回復されようとされたのです。
そしてその回復はエルサレムの神殿にあるのではなく、主イエスご自身が神殿そのものであるという点にあります。
私たちは主イエスという神殿を通して、神と出会い、神の恵みを受けていくのです。
主イエスの体がエルサレムの神殿に代わる真の神殿であり、その主の体の具体的現れとしての教会であるのです。

2010年08月15日「徴税人のように」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ルカによる福音書18章9~14節

説教要旨:
今日の主イエスの譬え話は、私たちにとって大いなる慰めであると同時に自らの信仰を反省する譬え話であります。
譬えでは、ファリサイ派と徴税人というまことに対照的な人物が描かれています。
ファリサイ派の人々は律法に厳格に生きた人々であり、当時の社会の尺度から見れば、立派な人でありました。一方の徴税人は律法を守ることができない人であり、またローマ帝国への税金を取り立てていた人であり、ユダヤ人社会からは蔑まれ、嫌われていた人でありました。
しかし主イエスは義とされたのは徴税人の方であると言われます。どうしてでしょうか。
それはファリサイ派の人の祈りに、それはまたその生き方に問題があったからです。
その問題とは、律法を守れない者を低めることで、蔑むことで、自らを高くし、誇るところにあったのです。
それは自己義認による義の主張であります。
一方の徴税人はそうではなく、神の御前にへりくだり、自らの罪を認め、神の憐れみを祈り求めるしかないものとして立っています。その信仰が神によって義とされたのです。
私たちは徴税人のように自らを低くするものでありたい。
そのことで神によって高められるのです。

2010年08月08日「恐れることはない」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書14章22~33節

説教要旨:
私たちの日常生活において恐怖はつきものです。
恐怖とは無縁の生活を望みますが、なかなかそうはいかないのが私たちの現実であります。一体私たちは恐怖から自由になれるのでしょうか。
今日の箇所でペトロも恐怖を抱いています。一つ目の恐怖はイエスを幽霊だと思ってしまったことによります。2つ目の恐怖は強い風を感じて、恐怖を抱きました。
注目すべきはどちらの恐怖も主の御声によって恐怖から自由になっていることです。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」との主の御声によって最初の恐怖は取り除かれています。そして次に彼は、主イエスのところへ湖の上を歩いていくと、強い風が吹いている
ことに気づき恐怖を感じ、沈みかけます。そのとき、「主よ、助けてください」と叫びます。
主イエスは言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。
この御声によってペトロは助けられるのです。実際には主イエスが手を伸ばしてペトロを捕まえることによって、ペトロは助けられていますが、本当の助けは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」との御声です。
叱責にように思われますが、そうではありません。
信仰の薄い者であるにもかかわらず、疑い多い者であるにもかかわらず、主は助けられるのです。「主よ、助けてください」と主に助けを求めるとき、主は信仰の篤い者、信仰の薄い者のいかんにかかわらず、助けられるのです。
ここに私たちの救いがあります。私たちはペトロと同じように信仰の薄い者であり、神への疑いもまたもつ者であります。恐怖から自由になることができない者であります。
そんな私たちでありますが、私たちに恐怖が襲うとき、「主よ、助けてください」と叫ぶなら、主は助けてくださいます。
そして御声をかけてくださいます。「安心しなさい。恐れることない。信仰の薄い者よ。でも私はあなたを見捨てない」。

2010年08月01日「新しい戒め」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マタイによる福音書5章38~48節

説教要旨:
今日の箇所で主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と教えています。
私たちは「隣人を愛する」ということはできても、「敵を愛する」ことはできません。
少なくとも私たちに損を与えないかぎりでの隣人を愛することはできます。
でも損を与えるような隣人を愛することは難しいものです。さらに損だけでなく敵として振る舞うような人に対しては、もう到底愛することなどできないのが
私たちの現実です。敵は憎むべき対象として私たちは見てしまうのです。
でも主イエスは敵を愛しなさいと説いています。
なぜでしょうか。
それは38節以下のことと関わっています。
つまり復讐や報復の禁止と関わっているのです。
敵が自分に損害を与えたとき、私たちは報復を考えます。
それも「目には目を、歯には歯を」という同量、同等の復讐ではなく、それを超えた復讐です。
復讐を貫徹することで溜飲を下げようとするのです。
しかし復讐された相手方は、復讐をした人に対して、もっと激しい報復を考えるのです。
そのように報復の連鎖が起こり、とどまるところを知らなくなっていくのです。
その連鎖を終わらすには、敵を憎むよりも、愛することが何よりも必要であると主イエスは見たのです。
主イエスが説くところを実践しようと思い、実際に行なうとするとき、私たちは敵を愛することができない自分を発見します。そこで私たちは自責の念をもつこともあります。愛を行いえない自分に
絶望することもあります。しかし神はそんなあなたを見て、怒りを発する御方ではありません。
私たちは自らの無力を神に打ち明け、神に助けを求めるとき、神は聖霊を通して、助けを与え、御力を与え、敵を愛することができるようにしてくださるのです。
なぜなら敵と見なしている人も神の救いの対象であるからです。主なる神はすべての人が救われることを願われておられるからです。

2010年07月25日「万軍の主が共にいます」渡辺敏雄牧師

説教箇所:詩編46編

説教要旨:
私たちは危険が差し迫っているとき、シェルターと言われるものを必要としています。
匿われる場所を必要とします。そのシェルターは人さまざまでありましょう。
詩人は私たちのシェルターは神であると告白しています。
人間が造るシェルターは皆限界をもったものであります。天変地異において崩れ去るものであります。
また社会の混乱と動乱において、揺るがないシェルターなどありません。
それは神の都エルサレムであっても同じであります。
もし神がそこにいないなら、神の都エルサレムといえども崩壊を免れることはありません。
詩人が生きた当時は、多くの人がエルサレムの不滅神話を信じていました。
どのような混乱と動乱の中にあっても神の都エルサレムは決して崩壊しないとの神話を信じていました。
詩人は、もし神がそこにいないなら、崩壊するのだと思っていました。
要は神がそこにいるかどうかであります。ゆえにエルサレムではなく、また神殿でもなく、神こそが私たちの本当のシェルターであるとの信仰に堅く立っていました。
万軍の主がともにいるなら、私たちは守られるのだ。たとえ神殿などなくても守られると確信していました。
万軍の主に信頼し、万軍の主に私たちの力をすべて譲渡する(ゆだねる)とき、万軍の主は私たちに代わって力を発揮され、勝利をもたらしてくださる。
地の果てまで、戦いを絶ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われるのです。

2010年07月18日「主イエスの苦しみ」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ヘブライ人への手紙2章10~18節

説教要旨:
御子イエス・キリストの苦しみは父なる神のご意志であったと10節でいわれています。
当時の周辺社会にあっては、神は苦しまない神でありました。全能である神が苦しむなど受け入れられないものでありました。
それも肉体をもって肉体で苦しむのが神の御子イエス・キリストでありました。それゆえイエス・キリストが神の御子であることを信じること、キリストを受け入れることは人々にとって容易なことではなかったのです。
キリストの受肉には理由がありました。それは、受肉して私たちと同じようになるためでありました。
その中にからだでもって苦しむということも含まれていたのです。
私たちが苦しむと同じようにキリストも苦しまれました。それは共に苦しむためであります。
神は愛なりと申しますが、愛には苦しみが伴います。神は苦しむ神です。私たちと共に苦しむことで愛を現されるのです。
私たちが試練の中にあるとき、キリストも試練を受けられたので、その試練の苦しみをよく知っておられます。ゆえに、私たちを助け出そうされるのです。
さらにキリストの苦しみには十字架の苦しみがあります。
この十字架の苦しみによって、私たちの罪の贖い、罪の償いが果たされたのです。
本来なら罪深い私たち人間が、死によって、その罪の代価を払わねばならないのですが、神はそのことを憐れみ、私たちに代わって、御子イエス・キリストを十字架に渡されたのです。
その死によって、私たちの罪は贖われたのです。ここに神の愛があります。神は十字架で苦しむことで、さらに死ぬことで、その愛を現されたのです。

2010年07月11 日「土の器に宝」渡辺敏雄牧

説教箇所:コリントの信徒への手紙二、4章7~15節

説教要旨:
パウロは自身を「土の器」と看做しています。土の器、それはもろく弱く壊れやすいものであります。
パウロだけでなく、私たちもまた土の器のようなものであります。
でもそのことを認めることは現社会においてプラスに働かない面があります。
弱肉強食のこの時代、自身を土の器であると言うことは勇気がいることであります。
特に若いときには勇気が要ります。そんな弱い人を世間は評価しません。
しかし年をとるにつれて、そのことを実感することとなっていきます。
でもそうなる前に私たちはやはり土の器であることを知り、それゆえに神の力を必要とするものであることを認めることは大事なことであります。
私たちは土の器であるがゆえに、その器を強め、守ってくれる御方を必要としているのです。その御方がイエス・キリストであることをパウロは語っています。
特にキリストの十字架の死と自分を重ね合わせて語っています。
パウロもかつては自分を土の器とは思っていませんでした。自身に自信をもって生きていました。でもキリストと出会ってからは、変わりました。
キリストの十字架によって、そのような生き方を打ち砕かれ、まさに土の器であることを実感したのです。しかしキリストの十字架は古い生き方の自分を死へと
向かわしめると同時に、新しい命を与えたのです。土の器であるパウロを今生かしているのは内に宿っているキリストの命であるのです。

2010年06月27 日「主イエスの死といけにえ」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マルコによる福音書10章32~34節
      ヨハネの手紙一、4章7~11節


説教要旨:
人間が住む社会には、いけにえという習俗があるといえます。
共同体の違いから、形式的には多様性がありますが、内容的には共通した同種のものが見られます。それは共同体が混乱し、統制がとれないとき、秩序を守るために、ある種の暴力をもっていけにえという行為が行われるという点において共通しているのです。
旧約聖書においてもヨナ書に出てくる預言者ヨナを荒れ狂う嵐の海に、嵐を鎮めるための
いけにえとして放り込むことなどにおいて見られます。
新約聖書においては、それはイエス・キリストの受難において見ることができます。
主イエスは当時のユダヤ教宗教社会から見て危険な人物と見られていました。
当時の宗教的権威を臆することなく批判していたからであります。当時の社会に支配的であった宗教的生活様式に異を唱えていたからであります。
宗教的社会を混乱に陥れる危険人物として排除されるべき対象となっていたのです。
そして人々はいけにえとして主イエスを十字架へと追いやるのであります。
しかし主イエスは、人々のいけにえにしようとする力に負けたのではなく、これまで伝統的に行われてきたいけにえに対して死を十字架で宣告されたのです。
もはやいけにえを必要としない社会の到来を宣言しているのです。
今日でも世界中において、いけにえの儀式は行われています。社会において異質と看做される人々が社会から排除されることが起こっています。十字架を無視した行為が行われています。いけにえにされるべきでない人たちがいけにえにされ犠牲になっています。
私たちキリスト者は、御国の到来を祈るとともに十字架ゆえにキリストと共にそのことに抗議すべきであるのです。

2010年06月20 日「託された使命」渡辺敏雄牧師

説教箇所:使徒言行録3章1~10節

説教要旨
聖霊を受けてイエスの弟子たちはこの世へと押し出されていきました。それは神の国の福音を宣べ伝えるためであります。
主イエスがそうであったように、彼らもまた福音宣教の第一線へと赴いたのであります。主イエスのなさんとされたことを彼らもまたなすためであります。
それには聖霊が必要でした。聖霊を受けることで主イエスの道を彼らも歩み始めたのであります。今日を生きる私たちもまた弟子たちと同じように主イエスの道を歩むことが求められています。
その道に癒しのわざを行うということもあるのです。今日の箇所では弟子たちは足の不自由な男を癒すということをしております。
主の道を歩みことでそこに主はかならず豊かに臨在されます。主が豊かに臨在するなら、そこに癒しのわざもまた起こるはずです。
主の道において、主イエスは聖霊において豊かに臨在し、豊かに癒しのみわざを現します。2000年前に起こった奇跡が見えるしるしとして今日でも必ず起こるとは限りません。
むしろ見えない形において起こることの方が多いのです。どのようにしてそれは起こるのか。それは関係性の中で起こります。
まず関わりをもつところから起こるのです。無関心のままでは何も起こりません。弟子たちと男はまず深い関係をもちます。表面的なうわべの関係ではありません。
施しを求めている男に対して、わずかばかりのお金を与えることで終わる関係ではありません。主イエスの御名を介しての関係です。主イエスが両者の間に豊かに臨在することで起こる関係です。主イエスの御手が両者を包むような中で起こる関係です。
そこに癒しのみわざが現れるのです。目に見えるような形での癒しではなくても、人の内面において変化を生むような癒しがそこに必ず起こることを覚えたい。

2010年06月06 日「イエスの癒し」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マルコによる福音書8章22~26節

説教要旨:
今日の箇所でひとりの盲人がイエスによって癒されています。福音書には多くの癒しの物語があります。ということは主イエスの「神の国」の宣教活動に「癒し」はなくてはならない不可欠なわざとしてあったということであります。しかし主イエスの癒しは現世ご利益を目的にしたものではなく、あくまで神の国の成就のためであります。
主イエスの癒しは精神の癒しというだけにとどまらず肉体の癒しも含まれています。人間のトータルな癒しであります。今日の箇所の盲人もまた単に肉眼で見えるようになったというだけではなく、霊的な目が開かれたことも私たちは覚える必要があります。なぜなら主イエスは2度にわたり癒そうとされておられるからであります。一回目において、盲人はまだはっきりと見えていません。人間が木のように歩いているのが見えると言っています。そして2回目においてはじめて、はっきりと見えるようになったと記されているのです。これはどういうことでしょうか。一回目のときはまだ主イエスの癒しのパワーが足りなかったということでしょうか。足りないから、はっきりと見ることができなかったのでしょうか。だからもう一回同じことをしたのでしょうか。そうではないでしょう。おそらく主イエスは最初のときは、盲人の背後から両手を目に置いたのではないのでしょうか。そのときははっきりと見ることができなかった。しかし2回目のときは、主イエスは盲人の前に立ち、両手を目に置いたのではないのでしょうか。するとはっきりと見えるようになったのではないのでしょうか。私たちは主イエスとの位置関係によって見える度合いが違ってくるのではないのでしょうか。すなわち、主イエスを背後に置くとき、私たちははっきりと物事を見ることができないのです。主イエスを前にするとき、すなわち主イエスと相向かい合う位置関係に立つときはじめてはっきりと見えるようになるのではないのでしょうか。それは肉眼でもって物が見えるというレベルにとどまらず、霊的に物事を見ることが
できるというレベルへと引きあげられることであります。霊的に物事を見ることができるとは、主イエスを前にして、主イエスを通して見るときに起こるのです。主イエスを通さずして見るとき、私たちはなかなか物事の真理をはっきりと見ることができないのです。私たちはたえず主イエスを前にして、主イエスの御声に忠実に従うときに私たちの真の癒しは起こるのです。

2010年5月30 日「新しい生き方」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書13章10~7節

説教要旨:
今日の箇所で主イエスは18年間も腰の曲がったままの女性を癒しております。しかしその日は安息日でありました。旧約聖書の教えでは、その日は何もしてはいけない日でありました。その日は癒しさえしてはいけない日とみなされていたのです。その戒めをイエスは破ることをします。会堂長は安息日に女性が癒されたゆえに、腹を立てます。しかし主イエスは言います。「18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と。
この言葉から「人のために安息日はある。安息日のために人があるのではない」というイエスの安息日規定からの解放宣言が響いてまいります。イエスの「女性は18年もの間サタンに縛られていた」との言葉を私たちは誤解しないようにする必要があります。女性が病気なのは、サタンのせいであると誤解することは誤りです。イエスの言わんとするところは、安息日規定に人が奴隷になっているような状態こそがサタンに縛られていることであるのです。
女性もまた当時のユダヤ人社会の支配的な考えのもと生きていましたから、安息日規定を破ることなど眼中にないことでした。ですから癒しを行うとされるイエス様が目撃しながれも、自分の方から癒してくださいと申し出ることができなかったのです。そんな女性の囚われた考えも主イエスは解き放たれていかれるのです。現代人である私たちもまた時代の支配的な考えに囚われるということはあります。その囚われが非人間的な作用を及ぼすことがあります。差別偏見というような形において現れます。主イエスはそのような誤った考えから私たちを解き放つためにもこの世に来られたのです。
主イエスに従うとは、主イエスの自由を共に共有することでもあります。主イエスによって自由にされた私たちは、時代の支配的な考えからも自由にされて生きる者であることを覚えたい。

2010年5月23 日「コミュニケーションの回復」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録2章1~11節

説教要旨
今日の箇所では、不思議なことが起こっています。知っているはずのない他国の言葉でめいめいが話し始めたのです。そして意志の疎通ができたのです。そんなことは起こりうるはずがないと思われますが、事実起こったのです。起こりえないことを引き起こすのが聖霊の働きであります。今日世界は意志の疎通ができない状態がいろいろなところであります。国と国と、民族と民族、異なる宗教間において、人と人との間であります。言語を同じくする人の間ですらあるのです。私たちは言語を統一すれば、文化を統一すれば、政治や経済を統一すれば宗教を統一すれば、意志の疎通は容易になると考えます。しかし必ずしもそうではありません。本当に私たちの意志の疎通にとって必要なのは、聖霊であります。
聖霊は言語の壁を乗り越えていきます。文化、政治、経済、宗教の壁を乗り越えていきます。信徒言行録はその証しと言える書であります。普段なかなか意志の疎通のできない者の間に聖霊が降ると意志の疎通が可能となるのです。さらにそこに信仰者が生まれることさえ引き起こすのです。

2010年5月16日「聖霊による喜びの充満」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書10章17~24節

説教要旨
主イエスは聖霊によって喜びに溢れています。聖書では、聖霊は喜びと深く結びついています。ガラテヤの信徒への手紙5章22節では聖霊の結ぶ実として愛、喜び、平和などあげられています。
私たちの人生において喜びのない人生など誰も望みません。誰もが喜びに満ちた人生を送りたいと思っています。でも人生はそんなに甘くはなく、苦難の連続といっても言い過ぎではありません。私たちにとって、苦難の中で喜ぶことは至難のわざであります。しかし聖霊はどんなときにも喜びを与えてくれます。
テサロニケの信徒への手紙一、5章16節では「いつも喜んでいなさい」と勧められています。いつも喜ぶ秘訣は聖霊です。聖霊なしで私たちはいつも喜ぶことなど到底無理なのです。主イエスが喜びに溢れた背景には、悪霊が神に服従し、聖霊が支配する時になったことがあります。聖霊が支配するとは、愛、喜び、平和が支配するときであるということです。主イエスはその生涯において、そのことを証しされたのであります。知恵ある者や賢い者はそのことが分かりません。信じられません。
しかし幼子のような者にはそのことが開示され、信じることをえさせてくださいます。幼子のような者とは、神様なしには自分は生きられないことを謙虚によく知っている者です。神に全く依存する者であります。
幼子のような者は、世の中がどんなに暗くあろうとも、聖霊の支配を信じているがゆえに、一切を神に望みをおくがゆえに、天から差し来る神の栄光の光を見ることができ、そのことで喜びに満たされるのです。