2011年06月19日「父への反抗と服従」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:創世記4章1~16節

説教要旨:
カインの弟アベルの殺人は表面的に読めば、兄カインのアベルへの嫉妬に原因があるように思えます。
カインが嫉妬しなければ、殺すこともないだろうにと思います。でもカインの嫉妬を起こさせたのは、神ではないか。神がどちらの献げ物にも目を留められたのなら、殺人は起こらなかったはずではないかと思います。神の偏愛が殺人の原因となっているとも考えられるのです。
カインはアベルへの嫉妬だけではなく、神に怒りを抱いています。自分の献げ物に目を留めなかった神への怒りです。でもカインは神に抗議の声を上げていません。ただ怒って神に顔を伏せたのです。
いわば面従腹背です。カインの知る神は怖い神です。抗議の声すら上げることのできない神です。
反抗の許されない、専制的な神です。ですからカインの居場所を問われて、「知りません」と答えたのです。
知っていると答えれば、さらに問い詰められ、殺人を犯したことを白状しなければならなくなる。そうしたら「目には目を、歯には歯を」の基準で死罪になるに違いないと思えば、知りませんとしか答えるほかなかったのです。
でも神は誰がアベルを殺したかはよくご存知です。隠し通せるものではありません。とうとうカインは罪を告白し、懺悔します。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と。犯した罪の重さをカインは知っています。
また自分に下される罰に対しての覚悟もしています。でもそのとき、神が告げたことは、怖い神しか知らないカインにとって、まことに意外な言葉でした。それは罪の赦しであったのです。またカインを誰も撃つことのないようにしるしをも神は付けられたのでした。
すでに十字架の主イエスがここに現れています。十字架のしるしがあります。聖書の神は確かに罪に対して怒りを覚える神です。しかし一方罪を犯した人間を赦す神でもあります。カインはこの赦す神を知らなかったのです。
赦されるには罪が処理されねばなりません。その処理を神はひとり子イエス・キリストの十字架を通してなされたのです。
神の怒りをすべてイエス・キリストが私たちに代わって十字架で負われることで、私たちの罪は贖われ、赦されるのです。

2011年06月5日「神の怒りと愛」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書3章1~6節

説教要旨:
今日の箇所でイエスは怒っています。それは人々の片手の萎えた人への態度に対して、また律法理解に対してであります。さらに彼らのイエスへの秘めた悪意に対してであります。
彼らは片手の萎えた人が癒されようが癒されまいが、どうでもよく、ただイエスを訴えようとしているだけであります。イエスが安息日に病人を癒すかどうかで訴えの口実を見つけようとしているのです。
癒せば、安息日規定の違反となります。訴えの口実ができます。彼らの目は片手の萎えた人にではなく、イエスへと注がれています。そんなとき、イエスは片手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われるのです。
イエスは人々の目を片手の萎えた人へと向けます。
目を向けた彼らにイエスは「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」と問いますが、彼らは答えることなく、黙っていたのです。
誰にも分かる簡単な問いであります。にもかかわらず彼らは答えず黙っていた。
安息日遵守こそが、律法遵守こそが彼らの命です。
でもその命は冷たい剣のような人を刺すようなものであり、それが人(片手の萎えた人)を殺すことになるのです。
私たちのかたくなな心は時として人を殺すことがあります。文字通りの殺人ということではなくても、人に致命的ダメージを与えることがあるのです。
イエスは彼らのかたくなな心に怒ると同時、すぐに悲しみをもって彼らに臨まれるのです。
この時点でイエスは十字架へと向かっています。彼らのかたくなな心がイエスを十字架へと向かわしめています。でもその十字架でイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と神にとりなしたのでした。
神の怒りは悲しむへと変わり、その悲しみは神の愛として十字架で結実したのです。
私たちのかたくなな心も神は怒っています。でもその怒りをイエスは私たちに代わって十字架ですべて負われたのです。そのことで私たちは救われたのです。