2011年06月5日「神の怒りと愛」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書3章1~6節

説教要旨:
今日の箇所でイエスは怒っています。それは人々の片手の萎えた人への態度に対して、また律法理解に対してであります。さらに彼らのイエスへの秘めた悪意に対してであります。
彼らは片手の萎えた人が癒されようが癒されまいが、どうでもよく、ただイエスを訴えようとしているだけであります。イエスが安息日に病人を癒すかどうかで訴えの口実を見つけようとしているのです。
癒せば、安息日規定の違反となります。訴えの口実ができます。彼らの目は片手の萎えた人にではなく、イエスへと注がれています。そんなとき、イエスは片手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われるのです。
イエスは人々の目を片手の萎えた人へと向けます。
目を向けた彼らにイエスは「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」と問いますが、彼らは答えることなく、黙っていたのです。
誰にも分かる簡単な問いであります。にもかかわらず彼らは答えず黙っていた。
安息日遵守こそが、律法遵守こそが彼らの命です。
でもその命は冷たい剣のような人を刺すようなものであり、それが人(片手の萎えた人)を殺すことになるのです。
私たちのかたくなな心は時として人を殺すことがあります。文字通りの殺人ということではなくても、人に致命的ダメージを与えることがあるのです。
イエスは彼らのかたくなな心に怒ると同時、すぐに悲しみをもって彼らに臨まれるのです。
この時点でイエスは十字架へと向かっています。彼らのかたくなな心がイエスを十字架へと向かわしめています。でもその十字架でイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と神にとりなしたのでした。
神の怒りは悲しむへと変わり、その悲しみは神の愛として十字架で結実したのです。
私たちのかたくなな心も神は怒っています。でもその怒りをイエスは私たちに代わって十字架ですべて負われたのです。そのことで私たちは救われたのです。