2010年09月19日「愛によって造られる」渡辺敏雄牧師

説教箇所:エフェソの信徒への手紙4章1~16節

説教要旨:
今日の箇所は、「キリストのからだ」としての教会の成長について述べられています。
まず聖霊による一致が語られます。私たちはバラバラでは一致をえることはできず、成長もありません。
一致をえる上で聖霊の働きが重要になります。この聖霊は愛と言い換えてもいいでしょう。
なぜなら「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマの信徒への手紙5章5節)からであります。
さらにその一致は単色の一致ではなく、多色の一致であります。皆違う色でもって神から与えられた賜物を有機的に生かすことで生まれる一致であります。各自が与えられている賜物が有機的に補い合い、組み合わされていくとき、教会の成長があります。
さらにその賜物を「キリストのために」用いるということが肝要であります。
「誰かほかの人のために」ではなく、すべての賜物が頭であるキリストを目指して用いられていくとき、教会の成長があるのです。
そして何より重要なのは愛であります。愛なき教会成長は健全な成長ではありません。
私たちは、数量的、外的な成長のみならず、非数量的、内実的な成長を愛によって図っていくことも大切であることを覚えたい。

2010年09月12日「究極の出会い」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ヨハネによる福音書1章35~51節

説教要旨:
今日の箇所はいろいろな出会いが記されています。
人間と人間との出会い、そして人間とイエス・キリストとの出会いがあります。
私たちの人生においても様々な出会いがあります。とくに人との出会いは、その人の人生に大きな影響を与えます。でも人間同士の出会いは限界をもっていることを私たちは知らねばなりません。どのような限界があるのでしょうか。
究極の限界は死であります。私たち人間は皆死から免れることはできません。
人間同士の出会いがどんなに素晴らしい出会いであっても、それはいつか終わりがあります。
また人間の救いをもたらすものではありません。特に死から救われるには、私たちはイエス・キリストとの出会いを求めねばならないのです。
この御方に出会うしか私たちは死から解き放たれることはないのです。
なぜなら主イエスは、罪と死に打ち勝ち、復活され、私たちに永遠の命を約束されておられるからです。
さてキリストがナタナエルに語られたように、実は私たちも神によって知られているのです。
私たちが求める前に、キリストに実際に出会う前に、神は私たちを知っておられ、私たちをキリストを通して救いへと導かれようとしているのです。
そのことが私たちには見えないなくとも、私たちはすでに救いへと招かれているのです。
私たちはすでにキリストにあって神に見い出されているのです。

2010年09月05日「究極の問い」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書16章13~20節

説教要旨:
主イエスは「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちに問いかけます。
ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。
すると主イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。
この主イエスの言葉は一見ペトロの上に教会を建てると言われているように思われますが、そうではなく、信仰告白があるところに教会が建てられるという意味であります。つまりナザレのイエスはメシア、救い主であり、生ける神の子であるとの告白があるところに教会が建つのです。しかし教会の土台はあくまで主イエス・キリストであります。キリストという岩の上に教会が建ち、そこにキリスト告白があるとき、教会が始まるのであります。
ナザレのイエスは単にメシアというだけにとどまらず、生ける神の子です。
人間であり神であります。神であるから、私たちの救いの岩になり、教会の土台となるのです。いかに能力に秀でた人間であっても、私たちの救いとはなりえません。
また教会の土台ともなりえません。
主イエスは、私たちの罪を打ち砕く岩であり、また一方では私たちの罪によっても破壊されない岩であります。それゆえに死によっても破壊されない岩として私たちに臨んでいます。むしろ命を与える岩であります。この岩の上に私たちの人生を築くこと、また教会を建てることが何よりも大事なことであるのです。