2012年10月21日「主の御翼のもとに」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルツ記2章1~23節

説教要旨:
姑のナオミと嫁のルツはベツレヘムへと帰ってきましたが、生活は苦しいものでした。
ですからルツは落穂拾いをすることを決意します。それによってなんとか食べることを確保しようとしました。
律法において他人の畑での落穂拾いは罪にはなりませんでした。律法では認められていた行為でありました。
そしてその落穂拾いをする畑がやがて結婚することになるボアズの畑であったのです。
聖書は、ボアズの畑にルツが出かけたのは「たまたま」のことであったと記しています。
でもこの「たまたま」がボアズとルツの未来を決めることになります。
人間には偶然と思われることも、神においては必然であることがあります。
ボアズとルツの出会いもそうであります。出会うべくして二人は出会ったのです。
私たちの人生において偶然の出来事と思われることも、実はその背後に神が働いておられることがあります。1章でのナオミのベツレヘムへの帰郷もそうであります。
ナオミは自分で決断して故郷に帰ることになったように思われますが、帰る決断の背後には、神が働いています。ボアズはそのことを知っています。12節「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れてきたあなたに」と語っています。主の御翼のもとにあってベツレヘムへの帰郷が導かれ、守れてきたことをボアズは知っているのです。ですからボアズはルツに厚意を示すのです。
主がルツに働いているゆえに示さざるを得ないのです。神の働きは帰郷の時点で終わっていないこと
もボアズには分かっていたのです。
ナオミとルツを主の御翼のもと導く神は私たちの神でもあります。
私たちの人生は偶然においてではなく、また自分の決断においてでもなく、
この神の御翼のもと導かれていることを覚えたいと思います。

2012年10月14日「喪失の中での希望」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルツ記1章1~22節

説教要旨:
ルツ記1章にはナオミとルツという姑と嫁の関係にある人物が登場しています。
ナオミは飢饉がベツレヘムを襲ったので、夫と息子二人と一緒に飢饉を逃れてモアブの地へと移ります。
モアブは異国の地でした。そこで夫がなくなりますが、その後息子たちはモアブの女と結婚します。
その一人の妻がルツでありました。しかしその結婚した息子たちもなくなります。
ナオミは一人残されることになります。
異国のモアブの地で生きていくことに困難を極めるナオミでありましたが、飢饉が去ったということを聞きます。
これがきっかけとなり、ナオミは二人の嫁を伴ってベツレヘムに帰ることを決断します。
その帰郷の道中において、ナオミは二人の嫁にモアブに戻った方がいいと進言します。
一人はその進言を受け入れ、戻ります。だがルツはそうはしなかったのです。
ナオミとあくまで一緒にベツレヘムに帰ることに固執したのです。
「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」(16節)というほど、ナオミとの一体性を主張するのです。ルツの決意に負け、同行をゆるすのです。
ナオミは夫と二人の息子をなくした喪失感に打ちひしがれています。
激しい喪失感のまま故郷のベツレヘムに入ります。同行のルツはナオミの喪失感を癒す存在とは、まだなっていません。むしろルツを見ることで息子を思い出してしまい、喪失感を深く覚えさせる存在でもあります。
ナオミにとってベツレヘムを出てきた状態とはまるっきり正反対の立場での帰郷であります。
出てくる前は、飢饉ということで物質的には欠乏状態にありましたが、精神的には夫と息子という生きがいを与えられていました。しかし今やそれが失われ、うつろな帰郷となったのです。
ナオミは身に起こったことを嘆きます。神に恨み辛みを言っています。
しかしそこには主の顧みへの希望があります。全くナオミは信仰を失っているわけではありません。
恨み辛みをいうことは、神を認めているから言えることであります。
ナオミはその段階の信仰にとどまってはいませんでした。神は私たちを必ず顧みてくださる御方であることを信じていました。ゆえに飢饉が終わったとの知らせは何よりも主が顧みてくださっておられることのしるしだと見ました。寡婦ゆえに故郷においても生活の困難は当然予想されます。しかしあえて故郷へと帰っていったのです。
ある意味で賭けといっていい決断でした。
失われた者を顧みてくださる神への信仰が、また希望がナオミをモアブからベツレヘムへと押し出したのです。

2012年10月07日「主はすべての罪を贖われる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:詩編130編

説教要旨:
詩人は深い淵の底に沈んでいるような絶望的状態に陥っています。それは何か大きな罪を詩人は犯したからであります。自分で罪を贖う力はありません。
自力でいかんともしがたい状態であります。深い淵から引き上げてくれる人は誰もいないのです。
しかし詩人には最後の救いの道が残っていました。それは神です。罪を贖い、赦してくれる神です。
その神を求めたのでした。
神はその求めに応え、助けくださいます。その神がイエス・キリストの十字架において現れたのです。
神は裁きだけの神ではなく、赦しの神であることが十字架において示されたのです。
もし神が裁きだけの神であるなら、私たちの未来はまことに暗いものであります。
私たちの未来は閉じたものとなるでしょう。なぜなら私たちは、犯した罪に対して死刑宣告を受けてもおかしくない者であるからです。しかし赦しの神が私たちを待っているなら、いや赦しの神が私たちのところへ、神の方からやってくるなら、私たちの未来は明るいものがあります。
罪の裁きをイエス・キリストが十字架ですべて引き受けてくださったことで、私たちはすべての罪贖われ、赦されて前へと、未来へと向かうことが赦されているからです。
この恵みを無駄にすることなく、私たちは前に向かって歩んでいきたい。