2010年07月25日「万軍の主が共にいます」渡辺敏雄牧師

説教箇所:詩編46編

説教要旨:
私たちは危険が差し迫っているとき、シェルターと言われるものを必要としています。
匿われる場所を必要とします。そのシェルターは人さまざまでありましょう。
詩人は私たちのシェルターは神であると告白しています。
人間が造るシェルターは皆限界をもったものであります。天変地異において崩れ去るものであります。
また社会の混乱と動乱において、揺るがないシェルターなどありません。
それは神の都エルサレムであっても同じであります。
もし神がそこにいないなら、神の都エルサレムといえども崩壊を免れることはありません。
詩人が生きた当時は、多くの人がエルサレムの不滅神話を信じていました。
どのような混乱と動乱の中にあっても神の都エルサレムは決して崩壊しないとの神話を信じていました。
詩人は、もし神がそこにいないなら、崩壊するのだと思っていました。
要は神がそこにいるかどうかであります。ゆえにエルサレムではなく、また神殿でもなく、神こそが私たちの本当のシェルターであるとの信仰に堅く立っていました。
万軍の主がともにいるなら、私たちは守られるのだ。たとえ神殿などなくても守られると確信していました。
万軍の主に信頼し、万軍の主に私たちの力をすべて譲渡する(ゆだねる)とき、万軍の主は私たちに代わって力を発揮され、勝利をもたらしてくださる。
地の果てまで、戦いを絶ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われるのです。

2010年07月18日「主イエスの苦しみ」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ヘブライ人への手紙2章10~18節

説教要旨:
御子イエス・キリストの苦しみは父なる神のご意志であったと10節でいわれています。
当時の周辺社会にあっては、神は苦しまない神でありました。全能である神が苦しむなど受け入れられないものでありました。
それも肉体をもって肉体で苦しむのが神の御子イエス・キリストでありました。それゆえイエス・キリストが神の御子であることを信じること、キリストを受け入れることは人々にとって容易なことではなかったのです。
キリストの受肉には理由がありました。それは、受肉して私たちと同じようになるためでありました。
その中にからだでもって苦しむということも含まれていたのです。
私たちが苦しむと同じようにキリストも苦しまれました。それは共に苦しむためであります。
神は愛なりと申しますが、愛には苦しみが伴います。神は苦しむ神です。私たちと共に苦しむことで愛を現されるのです。
私たちが試練の中にあるとき、キリストも試練を受けられたので、その試練の苦しみをよく知っておられます。ゆえに、私たちを助け出そうされるのです。
さらにキリストの苦しみには十字架の苦しみがあります。
この十字架の苦しみによって、私たちの罪の贖い、罪の償いが果たされたのです。
本来なら罪深い私たち人間が、死によって、その罪の代価を払わねばならないのですが、神はそのことを憐れみ、私たちに代わって、御子イエス・キリストを十字架に渡されたのです。
その死によって、私たちの罪は贖われたのです。ここに神の愛があります。神は十字架で苦しむことで、さらに死ぬことで、その愛を現されたのです。

2010年07月11 日「土の器に宝」渡辺敏雄牧

説教箇所:コリントの信徒への手紙二、4章7~15節

説教要旨:
パウロは自身を「土の器」と看做しています。土の器、それはもろく弱く壊れやすいものであります。
パウロだけでなく、私たちもまた土の器のようなものであります。
でもそのことを認めることは現社会においてプラスに働かない面があります。
弱肉強食のこの時代、自身を土の器であると言うことは勇気がいることであります。
特に若いときには勇気が要ります。そんな弱い人を世間は評価しません。
しかし年をとるにつれて、そのことを実感することとなっていきます。
でもそうなる前に私たちはやはり土の器であることを知り、それゆえに神の力を必要とするものであることを認めることは大事なことであります。
私たちは土の器であるがゆえに、その器を強め、守ってくれる御方を必要としているのです。その御方がイエス・キリストであることをパウロは語っています。
特にキリストの十字架の死と自分を重ね合わせて語っています。
パウロもかつては自分を土の器とは思っていませんでした。自身に自信をもって生きていました。でもキリストと出会ってからは、変わりました。
キリストの十字架によって、そのような生き方を打ち砕かれ、まさに土の器であることを実感したのです。しかしキリストの十字架は古い生き方の自分を死へと
向かわしめると同時に、新しい命を与えたのです。土の器であるパウロを今生かしているのは内に宿っているキリストの命であるのです。