2011年10月30日「誇りと思い上がり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙6章1~5節

説教要旨:
ガラテヤ教会において誰かが罪を犯したのですが、その罪を糾弾する「霊に導かれて生きている」と誇っている人々がいたようです。彼らは律法主義的信仰者であります。裁く心が赦す心よりも勝っている人々でありました。
自分は律法に従って正しい生活を送っていると彼らは思い上がっていました。罪を犯す者を赦す前に、裁くことに熱心でありました。それも柔和な心で裁くのではなかったのです。
裁くことはその人の罪の重荷をその人の責任として負わすことになります。自分には関係ない罪の重荷として突き放すこととなります。とても互いに重荷を担うことなどできません。
確かに犯した罪の重荷はその人が本来なら担うものとしてあります。でも担い切れない重荷もあります。
そんな重荷を主イエスは十字架ですべて担ってくださいました。
裁く人も罪とは全く無縁で生活しているのではなく、罪を犯すはずですが、その罪の重荷を主イエスによって担ってもらったはずであります。にもかかわらずそのことを忘れ、またかつての律法主義的生き方に戻ってしまい、人を裁くことに熱心になっていたのです。
パウロは、そんなことではいけない、自分の行いを吟味してなさいと言うのです。あなたも罪の誘惑に日々遭っているはずだ、そして誘惑に負け、罪を犯しているはずだ、だとすれば、ただ人を責め、厳しく裁くことに熱心でいいのですか。
共に主イエスの十字架の血潮によって罪赦される者としてあるはずではないのか。
だとすれば互いに赦し合う関係(互いに重荷を担う関係)に立つことが必要なのではないのかと問うのです。そのことで「互いに愛し合いなさい、赦し合いなさい」というキリストの律法を全うすることになると説くのです。
私たちもしばしば律法主義主義的な信仰に陥ることがあります。たえず私たちは主の十字架にへりくだり自分の行いを吟味し、自らの罪を告白し、共に罪赦された者として互いに受け入れ、主のゆるしの恵みのもと生きていきたい。

2011年10月23日「自分を無にして」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教要旨:
2節で「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてほしい」とパウロは言います。この言葉の背後には、フィリピの教会においてなんらかの対立があることが分かります。その対立を克服するためにパウロは互いに謙遜であるべきことを説きます。その説く根拠にキリストを置きます。キリストの姿を描きます。6節以下です。
キリストが私たちの救いのためにいと高きところからこの地上に降りて来られ、自らの地位と栄光を譲渡され、自分を無にしたことをパウロは示します。
それほどに神は私たちを愛しておられるのです。
では罪深いこの世の只中に私たちの救いのために来られ、罪深い私たちと共に歩まれたイエス・キリストは一体誰に自らの地位と栄光とを譲渡されたのでしょうか。
父なる神でありましょうか。いや違います。他ならぬ私たち人間にであります。私たちに神の子としての地位を譲渡されたのです。
私たちはキリストを救い主として信じることにより、神の子とされます。また神の栄光の中で最も大きな栄光である愛を私たちに譲渡されたのです。神がキリストを通して私たちに譲渡された愛を受け取るには、私たちの自我を神へと明け渡さなければなりません。
自我に代わり神の愛で内を満たしてもらうことで教会内部の対立も克服されるのです。
自我が内に満杯であると神の愛に満たされることは至難のことです。
自我が打ち砕かれるには、私たちは十字架に向かう必要があります。
十字架の死に至るまでへりくだり、従順であったキリストに結び付けられて、私たちははじめて謙遜になりうるのです。また自分を無にすることがきるのです。

2011年10月09日「愛と憎しみ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの手紙一、2章1~11節

説教要旨:
ヨハネは「わたしの子らよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」(1節)と申しています。私たち罪ある人間が罪を犯さないということは不可能なことに思われます。でもヨハネは可能であることを語ります。
そのための鍵がイエス・キリストです。全世界の罪を贖う方イエス・キリストです。罪を犯さないような者になるには、大前提として罪を処理する方、罪を償う方を必要とします。その御方イエス・キリストがあってはじめて、私たちに罪を犯さない可能性が生まれるのです。ヨハネは神の愛に生きる人を求めます。神の愛に生きるには、キリストの贖罪を必要とします。自己愛にしか生きえない私たちの罪が、キリストの十字架の血潮によって贖われて、新たな道へと踏み出す。これが聖化の道です。
それは、神の愛を聖霊において内に宿すことで生まれる道です。自力での道ではありません。
でもその聖化の道を歩んでいるはずにもかかわらず、それとは反する信仰者がいたのです。
兄弟を憎むような信仰者がいたのです。そのような者は光の中を歩んでいるのではなく、闇の中を歩んでいる者であるとヨハネは言います。
でもそのような闇の中を歩む者も、なお主の憐れみを乞い、悔い改めるなら、贖い主イエス・キリストが臨み、罪ゆるされ、光の中を歩む者へと造り変えられるのです。

2011年10月02日「父と子の交わり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの手紙一、1章1~10節

説教要旨:
3節「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」と言われています。
「わたしたちとの交わり」とは、その根源を父なる神と子なるキリストとの交わりにもっています。
その父なる神と子なるキリストとの交わりは愛の交わりであります。
その愛の交わりをあなたたちとわたしたちとの間で持つために命の言葉であるキリストをヨハネは伝えると言うのです。
父と子の愛の交わりは、御子キリストを通して私たち人間相互の愛の交わりとなります。
キリストなしには、人間相互の愛の交わりは成立いたしません。
なぜなら現実の私たちの姿は罪びとであるからです。罪ある者同士が父と子の交わりに類比する愛の交わりを形成することはできません。
私たちの罪が贖われなければなりません。その罪の贖いのためにキリストは十字架で死なれたのです。
罪の贖いを受けるためには、まず私たちは自分が罪びとであることを告白しなければなりません。
罪の告白において十字架の主イエスは罪を贖い、ゆるし、私たちに新たな命を与えます。
その命は父と子の交わりに類比する愛の交わりに生きる命です。そしてその命は命の言葉であるキリストに従う生き方であります。それはまた永遠の命へと繋がるものであるのです。