2011年01月23日「主において喜ぶ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4章4~7節

説教要旨:
4節には「主において常に喜びなさい」といわれています。
「常に」といわれますと、非常に難しいように思われます。私たちの毎日の生活は、喜びばかりの生活ではありません。悲しみのとき、嘆きのとき、悩みのとき、苦しみのときなどあります。
ではいかにしてそれは可能なのでしょうか。「主において」ということに注意したいと思います。
「主において」でなければ、それは不可能でしょう。
「主において」とは、主との交わりにおいてということです。主の御手のうちにおいてということです。
主イエスは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)。
罪と死に勝利した主イエスとの交わりが私たちに喜びをもたらすのです。主の御手に私たちは握られているのです。
御手のうちにあるこの交わりは、いついかなるときにおいても誰も取り去ることができません。だから「常に」があるのです。
私たちは日々の生活に将来に対して思い煩いをもちます。今の取り巻く状況が打開困難であり、苦難に満ちているとき、私たちは思い煩います。喜びはそこにはありません。でもそんな状況下においても主イエスは共にいます。その共にいます主に感謝し、既に世に勝たれている主に重荷と苦難の一切をゆだねるとき、
「あらゆる人知を超える神の平和」が私たちに訪れます。そして「あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」のです。

2011年01月16日「主の慰め」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書66章7~14節

説教要旨:
今日の箇所では、主の慰めが母性的イメージで表現されています。
人間の慰めの中には、社交儀礼的な慰めもあります。しかし母親の子に対する慰めは、真実なものではないでしょうか。その母と子の関係の比喩で言われる主の慰めもまた
真実なものであります。私たちは勢いのあるとき、順風満帆のときは、慰めなど必要としません。
むしろもっと奮い立つようなことを言ってくれる人を待ちます。
しかしそうでないとき、つまり苦難と試練の中にあるとき、悲しみと嘆きの中にあるときは、心から真実に慰めてくれる人を求めます。信仰者にとって、その人は神であります。
旧約聖書の神は、何か怖い、厳ついイメージを持ちがちですが、決してそれだけではなく、母性的な面ももっているのです。
このような母性的神のイメージはやはりバビロン捕囚期から始まるものであろうと思われます。
国は滅亡し、捕囚の民として異国の地バビロンで、逆境の中で生活しているユダヤの民にとって、母性的神が求められたのも、無理からぬところであります。
預言者イザヤを通して神は母性的イメージで民に対して慰めを語られたのであります。
私たちも苦難と試練の中にあるとき、すべてを包含するような優しい母親のような神に向かい、そして抱かれ、慰められることが必要です。なぜなら主の慰めは真実であるからです。
母親を超えるほどの慰めでもって、主は私たちを抱いてくれます。

2011年01月09日「昨日、今日、明日」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの黙示録1章4~8節、22章16~21節

説教要旨:
ヨハネ黙示録1章4節、8節には「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と言い表されています。
その御方はイエス・キリストであります。やがて来られる方はかつておられた方であり、今おられる方です。
このように言われますと、不思議な感じがします。
かつて来られた方が、今おられるなら、どうしてやがて来られることなどあるのでしょうか。
すでに今来ているなら、どうして「主イエスよ、来てください」と願う必要などあるのでしょうか。
主イエスはすでに2000年前クリスマスにおいて来られています。それは旧約聖書に預言された通りでありました。主イエスは旧約で預言されたとおり、そのメシアとしての使命を果たし、父のもとへ昇られました。
今は目に見える形においては、この地上におられません。ではなぜ「今おられ」と言うのでしょうか。
それは、主イエスが自分の代わりに聖霊を私たちのところに遣わすことを約束されたからです(ヨハネ福音書14章16節)。聖霊において主イエスは私たちと共にいるのです。聖霊は確かに目には見えません。
でも聖霊は、風と同じように目には見えないけれでも感じることはできるはずです。
私たちが聖霊を信じるなら、主イエスが今共にいることを実感できるのです。
ですから聖霊において今おられというのが本当のところであります。
ではそのまま目に見えない形のままでずっとおられるのでしょうか。そうではありません。
主が再び私たちのところに来られるとき、目に見える形においてやって来られます。
そのときは、終末のときです。神の永遠の御国が成就するときです。
一切の苦難は終わりを告げるときです。
黙示録が書かれた当時、クリスチャンは激しい迫害の中にありました。ゆえに一刻も早く迫害の終わるときを待望せざるをえませんでした。主が再び来られるとき、それは迫害が終わるときです。永遠の命が実質的に与えられるときであります。そのときを願いつつ、今聖霊において共におられる主イエスに支えられ、慰められ、励まされ、勇気づけられて迫害の中生きていたのです。私たちも原始キリスト教会のキリスト者たちと同じ信仰をもって、この世の苦難に立ち向かっていきたい。

2011年01月02日「キリストと共に歩む」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書21章20~23節

説教要旨:
今日の箇所で、主イエスは弟子のペトロを再び召すのですが、ある一人の弟子のことが気になっています。それは20節にあるとおり、「イエスの愛していた弟子」でありました。
ペトロは自分が一番弟子であり、主が最も愛しているのではないかと思っていたので、気になる存在であったことでしょう。そして彼の今後について主イエスに尋ねるのです。
「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と。すると主は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい」と言われたのです。この主の言葉を弟子たちは誤解して、彼は死なないと思ったのです。
ペトロも当然もしできるなら、自分も死なないようにしてほしいと思ったことでしょう。
私たちもそう思うかもしれません。しかし主イエスは、彼は死なないという意味で言ったのではなく、ただわたしに従いなさいということを言われたのです。すなわち言い換えれば、あなたにはあなたの道がある。
その道がたとえ長く生きる道でなくても、主が召す道としてあるなら、その道を行きなさい。
人には主が示すそれぞれの道があるではないか。あの人はどうの、この人はどうのという前に、まず主が召す道があなたにあるではないか、その道を主と共に歩みなさいと言われたのです。私たちにも、それぞれ主が召す道があります。その道をただひたすら主とともに歩む一年でありたい。