2013年03月24日「最後の晩餐と私たち」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書26章17~35節

説教要旨:
最後の晩餐における弟子たちの姿は私たちと無縁では決してありません。
イエスが弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」といわれた時、ペトロはじめ弟子たちは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったのです。
しかしその後の弟子たちは、イエスを裏切り、見捨てることをするのです。
弟子たちの強がり、虚勢は裏返せば弱さを隠すものです。
彼らにはその意識がなくても、心の奥では弱さが潜んでいるのです。
私たちはともすれば弟子たちと同じように自分の弱さを認めず、強がりを言います。
その結果人を裏切ることもあります。
イエスはそんな私たちの弱さをよくご存知です。
イエスの言葉に対して、強がりなど言わず、沈黙するならまだ罪も軽いでしょうが、彼らは皆そうではなかったのです。
どうしてイエスはそんな彼らを弟子として選んだのでしょうか。
イエスが神の子であるなら、見抜けないはずがなかろうと私たちは思います。
イエスはあえてそんな者を弟子として選ばれたのです。
それは最後の晩餐が意味するところへと私たちを導きます。
弟子たちは何か優れた才能があったから選ばれたのではありません。
人格的に優れていたからでもありません。
皆弱さを隠し、虚勢を張る結果、イエスを裏切る者としてすでに召命の段階で見通されて選ばれているのです。
選びの段階からすでに最後の晩餐が目指されていたといえるのです。
イエスを裏切るほどの罪深い者としてあるにもかかわらず、彼らは皆最後の晩餐にあずかっています。それはどんなに罪深い者も主イエスの十字架の血潮によって罪が贖われるということを示しています。
十字架の恵みはどんな大きな罪よりも大きいのです。
私たちは主の御前にあっては、弱さを隠す必要はありません。
強がりなど言わずに己の弱さを素直に認めればいいのです。
弱さを認めず、強がりを言った弟子たちでさえ、イエスは復活後に彼らの前に現れ、再び彼らを召すのです。なぜならこの時、彼らは皆己の弱さをとことん知った者になっていたからであります。
そのこともイエスは最後の晩餐のとき、すでに知っていたのではないのでしょうか。
それゆえに最後の晩餐を彼らと共にしたのではないのでしょうか。

2013年03月17日「十字架を目の前に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙3章1~6節

説教要旨:
1節で「ああ、物分りの悪いガラテヤの人たち、誰があなたがたを惑わしたのか。
目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言われています。
今は福音から離れてしまっているガラテヤの信徒たちも、かつては主の十字架における贖罪の恵みを信じ、受け入れたのです。
それが律法主義者たちの惑わしで、やはり救われるには割礼も必要なのではないのか、律法も必要ではないのかと考えるようにまでなってしまったのです。特にユダヤ人クリスチャンの間でそのように考えられたのです。
これでは福音から律法主義への逆戻りです。
律法主義者たちは主イエスの兄弟ヤコブの権威を笠に着ていました。
当時においてエルサレム教会の中心人物は主の兄弟ヤコブになっていました。
ヤコブの権威は非常に強くありました。しかし主の兄弟というだけで権威があるのでは、霊的権威とはいえません。肉的な権威、この世的な権威であります。
しかし人間はこの世的な権威に弱いのです。彼らは単に物分りが悪いというだけでなく、この世的な権威に抗するのではなく、この世的権威におもねる形でうまく振舞ったとも言えるのです。
霊によって始まった信仰が今危機に陥れられています。
今肉によって仕上げられようとしています。
私たちもガラテヤの信徒のようになる危険があります。私たちは人に従うよりも神に従うべきであります。
律法主義者は肉的な権威に従いますが、福音に生きる者は霊的権威に従います。
霊的な権威に従い、福音に生きる上で大切なことは、私たちの目の前に十字架のイエス・キリストがいつもはっきりと示されていることが何よりも大切なのです。

2013年03月10日「十字架のもとに立つ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章1~11節

説教要旨:
今日の箇所で、律法学者やファリサイ派の人たちは悪意をもってイエスのところへ姦通の現場で捕らえてきた婦人を連れてきます。そしてイエスを試します。
律法では姦通の罪の女は石で打ち殺せといわれているが、イエスはどう考えるかと彼らは問います。彼らは、イエスが律法の通りに打ち殺せよといえば、日頃愛やゆるしを説いているイエスの姿とは違い矛盾していると問い詰めることができ、またゆるせと言えば、イエスは律法を軽視しているけしからぬ奴であると攻撃できるのです。要するに彼らは女を手段にしてイエスを攻撃批判したいのです。
イエスはそれに対して何も答えず、地面に何かを指で書きます。
この動作はイエスが答えに窮しているからではありません。彼らの悔い改めを待っているのです。
しかし彼らはなおもしつこく問い続けるので、イエスはとうとう「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言われるのです。
この言葉を聞いて、人々は女のもとから去っていきます。それはまたイエスのもとから去っていくことでもあります。
その場に残ったのはイエスと女だけでありました。
ここで注意したいことは、イエスは「罪なき者が石を投げるがよい」と言われているだけであって、投げることのできない者はこの場を立ち去れとは言ってません。しかし人々は立ち去ったのです。どうしてでしょうか。
その場になおもいて、イエスがどうされるのか見ていても良かったのではないでしょうか。しかし彼らはそうはしなかった。
そうしなかった理由が二つあります。
まず第一に、彼らは、自分も確かに罪を犯す存在であるが、姦通のような罪を犯すほど悪い者ではないと思っていたから、女に石を投げることはできないが、またこの場に罪深い女と一緒にいることはできない、自分は女とは違う存在である、一緒にされては困るとの思いから、女のもとから立ち去ったのです。
しかし彼らも女と一緒にイエスのもとに残るべきでありました。彼らも罪人であることには変わりはないからです。
イエスのもとにあって罪のゆるしを女と同様に受けるべきであったのです。
第二に、彼らは神の子としてイエスを見ていませんので、神のみが罪をゆるすことができるとの考えのもと、イエスのもとにとどまり続けることはできなかったのです。イエスから罪のゆるしを受ける気など毛頭なかったからです。
私たち皆は主イエスのもとにとどまり続けることが必要です。罪の軽重を自分の尺度ではかり、自分の罪を他者の罪よりも軽いとみなせば、その他者とは距離を置く、その他者と交わることを避けてしまう。イエスはそんな私たちの罪ある姿を見抜いています。どちらも罪を犯したことにおいて一緒ではないのか。罪の軽重は神が決めることであるのではないのか、それゆえに神のみが罪をゆるす権威をもっているのではないのか。
自分の罪の軽重を自己査定していくことで、結局自己義認に陥っているのではないのか。
私たちは深く反省し、悔い改める必要があるのではないでしょうか。主イエスの十字架のもとに立ち続けることで、私たちはたえずそんな自己義認の罪を悔い改め、また罪のゆるしを主イエスに乞うものでありたい。

2013年03月03日「人知を超える神の平和」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4章4~7節

説教要旨:
パウロは4節で「主において常に喜びなさい」と言います。
常に喜ぶことなどできるのでしょうか。まずできないのではないでしょうか。
ただパウロは「主において」と言っていることに注意したいと思います。
主においてとは、キリストにあってということです。キリストにあってとは、キリストの愛にあってということです。キリストの十字架に現れた神の愛によって、救われた者にとって、いついかなるときであっても、またどんなことが起ころうが、この救われたという事実は変わらないのです。
この事実を覚えるなら、常に喜ぶということは可能となるのです。
主の十字架によって罪が贖われ、赦された者は救いの喜びだけでなく、広い心が伴います。なぜなら自己義認から解き放たれるからです。
自己義認は他者を裁きます。自分は正しく、他者は悪いとみなす傾向を強くもちます。
裁くところに広い心はありません。他者受容の心は閉じられます。
十字架の神の恵みによって救われたがゆえに、自分の力によってではなく、徹頭徹尾神によって義とされたがゆえに、必然的に広い心とならざるをえないのです。
また私たちは思い煩いが多い生活をしていますが、そのことで主において喜ぶ生活から、遠くなります。なぜなら思い煩いゆえに、主イエスを忘れてしまいがちになるからです。
主イエスに思い煩いをゆだねるのではなく、思い煩いを自分で処理しようとするからです。
パウロは「主はすぐ近くにおられます」(5節)と言います。
私たちはすぐ近くにいる主イエスに向かい、求めているものを神に打ち明けることが大切です。
思い煩いを神に打ち明け、神に思い煩いの処理をゆだねることで私たちは思い煩いから解き放たれます。
そしてその結果人知を超える神の平和が訪れるのです。