2013年03月03日「人知を超える神の平和」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4章4~7節

説教要旨:
パウロは4節で「主において常に喜びなさい」と言います。
常に喜ぶことなどできるのでしょうか。まずできないのではないでしょうか。
ただパウロは「主において」と言っていることに注意したいと思います。
主においてとは、キリストにあってということです。キリストにあってとは、キリストの愛にあってということです。キリストの十字架に現れた神の愛によって、救われた者にとって、いついかなるときであっても、またどんなことが起ころうが、この救われたという事実は変わらないのです。
この事実を覚えるなら、常に喜ぶということは可能となるのです。
主の十字架によって罪が贖われ、赦された者は救いの喜びだけでなく、広い心が伴います。なぜなら自己義認から解き放たれるからです。
自己義認は他者を裁きます。自分は正しく、他者は悪いとみなす傾向を強くもちます。
裁くところに広い心はありません。他者受容の心は閉じられます。
十字架の神の恵みによって救われたがゆえに、自分の力によってではなく、徹頭徹尾神によって義とされたがゆえに、必然的に広い心とならざるをえないのです。
また私たちは思い煩いが多い生活をしていますが、そのことで主において喜ぶ生活から、遠くなります。なぜなら思い煩いゆえに、主イエスを忘れてしまいがちになるからです。
主イエスに思い煩いをゆだねるのではなく、思い煩いを自分で処理しようとするからです。
パウロは「主はすぐ近くにおられます」(5節)と言います。
私たちはすぐ近くにいる主イエスに向かい、求めているものを神に打ち明けることが大切です。
思い煩いを神に打ち明け、神に思い煩いの処理をゆだねることで私たちは思い煩いから解き放たれます。
そしてその結果人知を超える神の平和が訪れるのです。