2009年7月26日「あなたは私の助け」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:詩編70編
2、神よ、速やかにわたしを救い出し、主よ、わたしを助けてください。
3、わたしの命をねらう者が恥を受け、嘲られ、わたしを災いに遭わせようと望む者が、侮られて退き、
4、はやし立てる者が、恥を受けて逃げ去りますように。
5、あなたを尋ね求める人が、あなたによって喜び祝い、楽しみ、御救いを愛する人が、神をあがめよといつも歌いますように。
6、神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。


説教要旨
この詩人は神の助けが一刻も早く訪れるのを待っています。なぜなら詩人には死を覚悟するほどの危機が訪れているからです。その危機は切羽詰まったものであ るがゆえに、詩人は「速やかにわたしを救い出し」(2節)と神の助けを求めているのです。

普通わたしたちは、苦難の中にいないとき、神は近くにおられると感じます。一方苦難の中にいるとき、神は自分から遠く離れておられると思ってしまい ます。
しかし詩人はそうではなく、神は人生の良いときも悪いときもいつもそば近くにおられるとの確信をもっています。

事実神はいつもわたしたちとともにおられます。そば近くに。
それがイエス・キリストにおいて現れたインマヌエル(神われらとともにいます)の神であります。ですから詩人は遠く離れた神に祈っているのではなく、近く にいる神に祈っているのです。

神がいつもそば近くにおられるとの確信は神は助け主であり、逃れ場であるとの告白につながり、救いの確信ともなっているのです。そしてその告白は 「わたしは貧しく、身を屈めています」という姿勢から出てくるのです。
おごり高ぶりから出てくるものではありません。もしおごり高ぶりが祈りにあるなら、救いは訪れないでしょう。

わたしたちが詩人と同じように貧しく(主の前にあってへりくだること)、身を屈め、 主の助けを呼び求めるなら、詩人が確信したように主は必ず助けてくださることでしょう。

2009年7月19日「十字架のもとへ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヤコブの手紙、1章9~12節
9、貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。
10、また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。
11、日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。
12、試練に耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

説教要旨

今日の箇所は富める者と貧しい者が対比されています。この対比は物質的に富んでいる、貧しいということだけに留まりません。いろいろなことにおいて富むと いうことの危険が指摘されているのです。人は富むことで、往々にして傲慢になり、おごり高ぶり、神を忘れ、「神が二の次となる危険があるのです」

一方さまざまな面において貧しいということは、欠乏していることであり、欠乏を満たすものを求めるということになります。そこにはおごり高ぶるとい うことは起こりにくいのです。神はそういう人を求めています。貧しさゆえに、逆に神によって 高められるということが起こるのです。
人は試練の中にあるとき、おごり高ぶりは消えます。貧しく低くならざるをえないのです。私たちが試練の深淵にあるとき、そこにキリストの御手は伸ばされま す。そして引き上げられ、高められるのです。

逆に富める者はおごり高ぶるがゆえに、キリストによって低められるのです。低められたとき、そのことを感謝し、キリストに救いを求めることが大切で す、
おごり高ぶりが激しくなるとき、ついには草花のように滅び去ることさえ起こりかねません。そうならない前に、悔い改め、キリストの救いを仰ぎたいと思いま す。私たちはいつも十字架のもとにあって、貧しい者でありたい。

2009年7月12日「試練のとき」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリント人への手紙一、10章1~13節
11、これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。
12、だから、立っていると思うものは、倒れないように気をつけるがよい。
13、あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせ ることはなさらす、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

説教要旨

クリスチャンとしてこの世を生きる上で大切なことは神の栄光を現すということです。 イスラエルの民もそのために神に選ばれたのですが、その歴史がそうでなかったから、イスラエルを反面教師としてクリスチャンは生きるべきあることを今日の 箇所でパウロは語っているのです。

神の栄光を現すとは、神がそこに生きて働いていることを示すことです。そのために、私たちは御言葉に聴き従う必要があります。御言葉から離れると き、御言葉に聴き従わないときには、栄光を現すことはできないのです。
私たちが御言葉から離れるときは、私たちが試練に遭っているときであることが多いのです。試練の中にあるとき、神は遠くに行ってしまった、神の御顔を見る ことができないと 考え、御言葉以外のものに解決を求ることが多いのです。

しかし試練は神から来るものです。神が私たちのために下さる恵みです。試練において私たちがどれだけ神を信頼し、御言葉に頼り、御言葉に従うかを神 は見ておられるのです。試練の中にあっても神の栄光を現すことを私たちに求めているのです。
私たちは試練の中にあっても、なお神に信頼し、御言葉に従うなら、試練を乗り越えることができます。試練を乗り越えるごとに神への信頼は一層深まり、また 御言葉への信頼は 一層深まるのです。

また試練は神からくるがゆえに、私たちがもうこれ以上耐え切れないと思うとき、逃れる道を神は用意してくださいます。そして試練の終わりを私たちは 迎えることができるのです。
どうしてあのような厳しい試練を乗り越えることができたのかと振り返るとき、そこには神が共にいて、生きて働いておられたからに違いないと悟るのです。

2009年7月5日「深い淵の底から」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:詩編130編
1、深い淵の底から。主よ、あなたを呼びます。
2、主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
3、主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。
4、しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。

説教要旨

詩人は深い淵の底から助けを主に向かって呼び求めます。底ですから、もうこれ以上落ちることのない所であります。死を背負ったような状態で主を呼び求めて います。
そこには自分でもって、あるいは他のものでもって自分が犯した重い罪を贖うことができなという認識があります。主のみが罪を贖うことのできる御方であるこ とを彼はよく知っております。ですから主を呼び求めざるをえないのです。

しかし彼は罪の贖い主は主であることは知っておりますが、具体的にどういう形で罪が贖われるか知りません。律法には動物の生贄を献げれば、罪ゆるさ れることになって いますが、そのようなことで罪の贖いの確信を得ることはできません。主が確かにあなたの罪を贖い、ゆるすと言ってくれなければ平安はないのです。そんな主 の到来を彼は待ち望んでいます。見張りが朝を待つにもまして。

彼の希望は十字架の主イエス・キリストにおいて実現しました。彼の叫びは主イエスに届き、主イエスは彼のところにやってきたのです。何百年のあと に。そして十字架にかかられたのです。
彼は十字架を知っていませんでしたが、私たちはすでに十字架の主イエスを知っています。 十字架にこそ罪の贖いとゆるしはあるということを知っています。そのことを知っている幸いと平安を私たちはいただいているのです。