2009年7月19日「十字架のもとへ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヤコブの手紙、1章9~12節
9、貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。
10、また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。
11、日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。
12、試練に耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

説教要旨

今日の箇所は富める者と貧しい者が対比されています。この対比は物質的に富んでいる、貧しいということだけに留まりません。いろいろなことにおいて富むと いうことの危険が指摘されているのです。人は富むことで、往々にして傲慢になり、おごり高ぶり、神を忘れ、「神が二の次となる危険があるのです」

一方さまざまな面において貧しいということは、欠乏していることであり、欠乏を満たすものを求めるということになります。そこにはおごり高ぶるとい うことは起こりにくいのです。神はそういう人を求めています。貧しさゆえに、逆に神によって 高められるということが起こるのです。
人は試練の中にあるとき、おごり高ぶりは消えます。貧しく低くならざるをえないのです。私たちが試練の深淵にあるとき、そこにキリストの御手は伸ばされま す。そして引き上げられ、高められるのです。

逆に富める者はおごり高ぶるがゆえに、キリストによって低められるのです。低められたとき、そのことを感謝し、キリストに救いを求めることが大切で す、
おごり高ぶりが激しくなるとき、ついには草花のように滅び去ることさえ起こりかねません。そうならない前に、悔い改め、キリストの救いを仰ぎたいと思いま す。私たちはいつも十字架のもとにあって、貧しい者でありたい。