2013年02月17日「初めの愛に戻る」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1~7節

説教要旨:
1節にある「右の手に7つの星を持つ方、7つの金の燭台の間を歩く方」というのはイエス・キリストを意味しています。
そのイエス・キリストがエフェソ教会の信徒たちがよく忍耐して、偽使徒たちのうそを見抜き、彼らに勝利を収めたことをほめています。しかし一方でイエスは「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」といわれ、戒めています。
確かにコリントの信徒への手紙一、13章にあるように「愛は忍耐強い」ものです。その点でエフェソの人たちは、ほめられていいのですが、愛は忍耐だけではありません。
イエスが批判されている「初めのころの愛」とはどういう愛であるのでしょうか。忍耐を指しているのではないことは、確かです。それは「互いに愛し合う」という愛です。教会内における愛の交わりから離れてしまったということをイエスは言われているのです。
エフェソ教会の創立当初は愛の交わりがあった。しかし今はないのです。なぜそうなってしまったのか。
偽使徒たちに対しての信仰の戦いにおける忍耐において、愛が少しずつ薄れていき、勝利したと思ったときはもう愛から離れてしまっていたのです。忍耐が長くなればなるほど、また忍耐の度合いが強ければ強いほど他者を愛する余裕がなくなってまいります。忍耐することで精一杯となってしまうからであります。
偽使徒たちにつく者たちとそうでない者たちとの間の愛の交わりがまず冷えてまいります。
愛から離れていきます。そして使徒たちにつかない者たちの間でも長い忍耐ゆえに、心の余裕がなくなり互いに愛することがなかなかできなくなります。そして最後は偽使徒たちについた者の中で、自分の誤りに気付き悔い改めた者に対して偽使徒につかなかった者が彼らを受け入れることができず、愛することができない状態が起こったのです。
「互いに愛し合いなさい」という戒めだけでなく、「互いに赦し合いなさい」という主の戒めが守られていなかったのです。
この愛がないならエフェソの教会は主のからだとしての教会でなくなるとイエスは言われているのです。
「あなたの燭台をその場所から取り除けてしまおう」(5節)さえ言われているのです。
そうならないためにイエスは教会ができて間もないころの愛に戻りなさいと言われているのです。

2013年02月10日「エデンの園から十字架へ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:創世記3章1~24節

説教要旨:
今日の箇所は人間にどうして死がやってきたのか、苦難がやってきたのかを説明している箇所です。
それはアダムとエバが神の命令に逆らい罪を犯した結果であることを告げています。
しかし二人は自分たちが犯した罪の責任を他者に転嫁しています。
アダムはエバに、エバは蛇に転嫁しています。これは私たちもよくすることであります。
しかし究極において責任は犯した本人にあります。なぜなら人間は自由意志をもっているからです。
人間は神に従う自由も、逆らう自由ももっているからです。
神は人間を単に神に絶対服従する者としては造られませんでした。
ロボットのようには造られなかったのです。人間を自由意志をもった者として造られたのです。
その自由を人間は神に従うことで行使することも、神に逆らうことで行使することもできるのです。
神は私たちに主体的に神の戒めに従うことを求めているのです。あやつり人形のように従うことを求めているのではないのです。
人間の歴史は神に従わない自由を行使する傾向を強くもった歴史であります。その結果様々な悪がこの世に生まれました。人間は悪であることを知りつつ、悪を行ってきたのです。
それは、アダムとエバがエデンの園の善悪を知る木の実を食べた結果、死が人間に入ってきたのですが、食べることによって善悪を知る者となったからです。善悪を知る者になって善を行うことをすればいいのですが、それがなかなかできないのが人間であります。悪いと知りつつしてしまうのが、人間であります。神はそのことを恐れました。また二人が命の木から実を取って食べて、永遠に生きる者となる
ことも恐れました。悪いことを多く行う人間が命の木から取って食べることで永遠に生きる者になるならば、平和なエデンの園が破壊されるのは、時間の問題です。神はそのことを恐れたのです。
破壊される前に神はアダムとエバを楽園から追放したのでした。
追放された二人は自由意志を剥奪されず、持ち続けます。その後の人間も神に逆らう方向で自由意志を行使することが多く、世の中が乱れます。そしてその延長線上に今日の世界の現状があります。
神の平和はなかなか到来しません。神に逆らう方向で自由意志を行使することで様々な憎悪の関係が、争いが、敵意、差別がこれまで生まれてきました。人間はそれらを未だ克服していません。
アダムとエバが責任を他者に転嫁することで生まれた溝や壁は今日においても克服されていません。
私たちはどうしたら克服できるのでしょうか。それは一重に主の十字架にあります。
人間の罪の歴史がたどり着いた先に主の十字架が立っています。この十字架を通ることなしには、私たちには神の平和は訪れません。主の十字架を前にして、私たちは今まで犯した罪を悔い改め、罪を贖われて、新たに出発するしかないのです。私たちは主の十字架に従う自由も、従わない自由ももっていますが、一体どちらに自由を行使するのでしょうか。人類の未来は、主イエスに従う自由を行使することにかかっているのです。

2013年02月03日「あなたがたは光の子」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一、5章1~11節

説教要旨:
今日の箇所にはキリストの再臨のことが言われています。
再臨のことはイエスご自身が言われていることでもあり、確実に来るのですが、そのときがいつかは誰も分からないのです。いつ来るか分からないから目を覚ましていることが大切になります。
でも生理的にたえず目を覚ましていることは実際には無理です。
ですからこの箇所では、霊的に目を覚ましていることが言われているとみてよいと思います。
霊的に目を覚ましているとは、「主と共に生きる」(10節)ことと置き換えてもいいかと思います。
主と共に生きるとき、私たちは確実に光の子であります。なぜなら光であるキリストが私たちの内に住むからです。もしキリストと共に生きることができないなら、私たちは闇の子となってしまいます。
なぜなら光であるキリストを内に宿すことができず、私たちの心の内は闇のままであるからです。
私たちはキリストが内に住むことによって光の子とされますが、その光の子にも悪魔は襲ってきます。私たちを闇へと誘います。その悪魔の攻撃、誘惑に打ち勝つために私たちは「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶる」(8節)ことが大切です。
信仰とはキリストへの信頼、愛とはキリストの愛、救いの希望とは御国の希望です。
これらのものをいつも身に着けて歩むことで、悪魔の攻撃や誘惑から私たちは守られるのです。
守られるだけでなく、光の子として内から光を発し輝き続けることができるのです。
世の光として機能していくのです。