2012年04月29日「御言葉への信頼」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書4章43節~54節

説教要旨:
今日の箇所は、ある役人の息子を癒す物語です。
イエスがカナに来たことを聞いた役人は、息子の病気を癒してもらうためにイエスのところに来ます。彼はイエスに一緒に来てもらって息子が癒されることを願うのですが、イエスはそれをせず、ただ言葉だけを彼に与えます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という言葉です。
イエスは役人の信仰を試しています。彼の信仰が単なるご利益信仰であるかどうかを見定めているのです。彼の信仰がご利益信仰ではなく、御言葉信仰であるのかどうかを見極めているのです。
彼の信仰がご利益信仰であるなら、彼はイエスの言葉に逆らって、「イエスさま、どうかそう言わないで、私と一緒に息子のところまで来てください」と言ったことでしょう。
しかし彼はイエスの言葉に信頼し、素直に従い、ひとりでカファルナウに戻っていったのです。
そしてイエスが言葉を発せられたときに息子は癒されたことを知るのです。
今日の箇所の53節では彼とその家族がイエスを信じたのが、息子が癒されたから信じたように書かれていますが、そうではなく、彼がイエスの言葉に信頼し、信じたときがイエスを信じたときであるといえます。御言葉信仰に堅く立ったとき、癒しは起こったのです。
そして家族も、イエスの御言葉が一瞬のうちに空間を超えて、同じ時刻に息子のところまで届き、息子が癒されたことを信じたのです。
ですから彼らの信仰は決して単なるご利益信仰ではなく、神の御言葉に対しての信仰であるのです。私たちも神の御言葉への信仰を強められたい。

2012年04月15日「散らされて生きる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:創世記11章1~9節、マタイによる福音書28章16~20節

説教要旨:
創世記11章のバベルの塔の物語では、民は神によって全地に散らされます。
このことは神の裁きとしてあるように見えますが、一方では神の恵みでもあるのです。
それは創世記1章28節の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神の祝福が実現していく方向性をもっているからであります。散らされることなしには人類は全地に満ちることはできないのです。
しかし散らされることで互いの言語が違ってきます。言語の多様性が生まれます。
しかし一方では同じ言葉で話し、理解し合うということができなくなります。
またそこに違う民族が生まれます。人類の多様性が生まれます。
確かに言語が違うということは意志疎通において困難さが生じます。
しかしそこに互いに理解し合おうという意識も生まれます。相手の言語を理解しようとする努力が生まれます。
同じ言語ですとそういう努力を私たちはしません。
このように考えれば、決して散らされるということはマイナスばかりではないのです。
そのことをプラスに考えることも大事であります。
神がバベルの塔の物語を通して私たちに指し示していることは、私たちが同質的なものであることは決して好ましいことではないということであります。
私たちは異質なものを含んだ多様性において生きるものであることです。
神によって全地に散らされた多様性に富んだ者がまとまりなくばらばらになって、互いにいがみ合い、争い合い、殺し合うのではなく、一つとなるためにイエス・キリストは来られたのです。クリスチャンは世に先駆けてキリストによって集められた者たちであります。
集められてキリストにあって一つとなった者たちであります。
そしてキリストによってこの世へとまた散らされて(派遣されて)、福音を証ししていくものであるのです。

2012年04月08日「目が開かれて」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書24章13~35節

説教要旨:
今日の箇所は復活の主イエスと二人の弟子たちの出会いが記されている箇所です。
二人は最初は自分たちに話しかけているのが、イエスであるとは分からないでいました。
目が遮られていたからです。それは彼らのイエスに対しての理解が間違ったものであったからです。私たちも間違ったイエス理解では、目に前にイエスが現われてもイエスと認識することができないでしょう。
二人はイエスを預言者の一人あるいはローマ帝国からユダヤの民を解放する現世的なメシアとして見ていたのです。また自分たちの仲間の婦人たちがイエスが葬られた墓に行ったとき、墓は空っぽで遺体がなかったとの報告を信じることができませんでした。つまりキリストの復活を信じることができなかったのです。
そんな彼らにイエスは聖書を解き明かします。このとき二人の心は燃えていました。
聖霊がそのようなにしたのでしょう。でもまだ聖書の解き明かしを受け、心が燃えても彼らはイエスだと分かりません。
メシアは苦しみ(十字架)を受けるという預言があるにもかかわらず、彼らにとって十字架は敗北でありました。
これまで大いに期待してイエスに従ってきたのが、その最後が十字架であったとは。彼らは大いなる挫折感を味わいます。彼らの将来は全く暗いものです。絶望です。
圧倒的な絶望の中にあって、まだ彼らはイエスが分かりません。絶望の方が強く彼らを支配しています。
ところがイエスが家に入り、食事を共にするとき、パンを裂いたとき、すなわち二人が裂いたパンを食べたとき、イエスだと分かったのです。するとイエスの姿は見えなくなったのです。
ここにおいてやっとイエスだと分かったとはあまりにも遅いではないかと思います。
でもこれが私たちの信仰であるかもかもしれません。私たちは目に見える命のパンであるイエスを食することで、はじめてナザレのイエスをメシアとして理解することができるのかもしれません。
そしてそのメシアは復活したのだ、今も生きておられるのだということが分かるのかもしれません。
二人の弟子は確信しました。イエスはメシアであり、復活されたのだ。彼らの信仰の確信を見てイエスは姿を隠されたといえるのではないかと思います。もはや目に見える形で現われなくても大丈夫であるとイエスも確信したのではないのでしょうか。
もはやこの時点で二人には絶望ではなく、希望が支配します。
すると二人は今来た道を戻ることとなります。エルサレムへと向かうのです。
その道は絶望の道から希望の道へと転換することになったのです。

2012年04月01日「神の子イエス」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書27章45~56節

説教要旨:
イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と詩編22編を叫ばれました。一見するとイエスはとても弱い感じです。神の子としてのふるまいにふさわしいものでないように見えます。しかしここに神の子イエスの真髄があるといえます。
それはなぜか。それはイエスにおいて私たちすべての人の絶望が叫ばれているからです。
十字架という一点に私たち人間の絶望が凝縮しているからです。誰も地球上すべての人の絶望を代わって叫ぶことはできません。神の子のみができることであります。
私たちは罪の重荷に誰も耐えることはできません。絶望しか残されておりません。
私たちは皆重荷に押しつぶされて滅ぶしかない者であるのです。そんな私たちの絶望的状況をイエスは十字架で私たちとともに叫ばれたのです。絶望を負われたのです。
それによって私たちは希望を抱くことができるのです。私たちのどんなに深い罪の淵にも十字架で神に捨てられた神の子イエスは下り、私たちのところに来て、御手をもって私たちを引き上げてくれるのです。そしてイエスご自身も神によって復活させられます。
この救いへの信頼がイエスの叫びにもまたあるのです。詩編22編の最後は神への信頼において終わっています。イエスもまた神への信頼をもって死なれたといえます。
この神の子イエスの神への信頼は私たちの希望でもあります。
私たちはどのような苦難の中にあっても、絶望的状況下にあっても、希望をもって神に信頼して歩みを前に進めたい。