2012年04月08日「目が開かれて」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書24章13~35節

説教要旨:
今日の箇所は復活の主イエスと二人の弟子たちの出会いが記されている箇所です。
二人は最初は自分たちに話しかけているのが、イエスであるとは分からないでいました。
目が遮られていたからです。それは彼らのイエスに対しての理解が間違ったものであったからです。私たちも間違ったイエス理解では、目に前にイエスが現われてもイエスと認識することができないでしょう。
二人はイエスを預言者の一人あるいはローマ帝国からユダヤの民を解放する現世的なメシアとして見ていたのです。また自分たちの仲間の婦人たちがイエスが葬られた墓に行ったとき、墓は空っぽで遺体がなかったとの報告を信じることができませんでした。つまりキリストの復活を信じることができなかったのです。
そんな彼らにイエスは聖書を解き明かします。このとき二人の心は燃えていました。
聖霊がそのようなにしたのでしょう。でもまだ聖書の解き明かしを受け、心が燃えても彼らはイエスだと分かりません。
メシアは苦しみ(十字架)を受けるという預言があるにもかかわらず、彼らにとって十字架は敗北でありました。
これまで大いに期待してイエスに従ってきたのが、その最後が十字架であったとは。彼らは大いなる挫折感を味わいます。彼らの将来は全く暗いものです。絶望です。
圧倒的な絶望の中にあって、まだ彼らはイエスが分かりません。絶望の方が強く彼らを支配しています。
ところがイエスが家に入り、食事を共にするとき、パンを裂いたとき、すなわち二人が裂いたパンを食べたとき、イエスだと分かったのです。するとイエスの姿は見えなくなったのです。
ここにおいてやっとイエスだと分かったとはあまりにも遅いではないかと思います。
でもこれが私たちの信仰であるかもかもしれません。私たちは目に見える命のパンであるイエスを食することで、はじめてナザレのイエスをメシアとして理解することができるのかもしれません。
そしてそのメシアは復活したのだ、今も生きておられるのだということが分かるのかもしれません。
二人の弟子は確信しました。イエスはメシアであり、復活されたのだ。彼らの信仰の確信を見てイエスは姿を隠されたといえるのではないかと思います。もはや目に見える形で現われなくても大丈夫であるとイエスも確信したのではないのでしょうか。
もはやこの時点で二人には絶望ではなく、希望が支配します。
すると二人は今来た道を戻ることとなります。エルサレムへと向かうのです。
その道は絶望の道から希望の道へと転換することになったのです。