2013年06月23日「失うことで得る恵み」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコ福音書1章16~20節、フィリピの信徒への手紙3章5~11節

説教要旨:
聖書は、逆説(パラドックス)の書であります。イエスの弟子のペトロもパウロも捨てること(失うこと)でイエス・キリストを得た人です。
失うことで得るという逆説に生きる生き方をしたのがペトロであり、パウロであります。
ペトロはイエスの「我に従え」との御声に従いました。イエスに従うために網を捨てました。
またパウロもキリストに出会うまで自分の誇りとしていたものを捨てました。
捨てることで二人はイエス・キリストを得たのです。
私たちもイエスに従うには何かを捨てる必要があるのです。
私たちは捨てることよりも持つこと(所有すること)を求めがちであります。
現代社会は持つことが大きな力となって私たちを襲います。
経済成長ということはある意味「持つこと」の追求であります。
しかし聖書はそれとは違う生き方があることを示しています。
約束の地カナン定着後、イスラエルの民はバアルの神の誘惑を受けます。
そして誘惑に負け、バアル礼拝を始めます。そこに堕落が待っていました。
その行く着く先は国の滅亡でありました。
バアル神は持つことを追求する神であります。
私たちもまたこのバアル的力に弱いのです。
しかしイエスはバアル神を求める生き方を断念する、捨てることを求めます。
捨ててこそ真に主イエスと出会うことができることを告げています。
マタイ福音書19章に登場してくる「富める青年」は富を捨てることができずイエスのもとから去りました。
人によってそれぞれ捨てるものは違うでしょうが、何かを捨てること(失うこと)で私たちはイエス・キリストと出会うのです。
そしてキリストを得ます。キリストを得て、キリストに従うとき、神さまはさまざまな恵みを私たちにくださるのです。

2013年06月16日「神の愛の器」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙9章19~29節

説教要旨:
神は一体どのような目的をもって私たちを召し出しておられるのでしょうか。
24節では「神は私たちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」と言われています。神は、私たちが神の憐れみの器となることを望まれておられます。私たちはすでに憐れみを盛る器として私たちを造られています。
それにふさわしく生きることが求められているのですが、私たちは憐れみとは違うものを盛ってしまうことをしばしばしてしまうのです。
たとえば自己義認という罪です。自分は正しい、自分には罪がないという傲慢の罪を盛ることをしてしまうのです。
そうなると神が望まれる憐れみの器とはならなくなるのです。
私たちは本来なら罪ゆえに神の怒りを盛る器でしかありません。
にもかかわらず神はイエス・キリストの十字架の死により、私たちの罪を贖い、ゆるしてくださいました。
そのことで私たちは神の憐れみの器として新たに造られたのです。神の怒りの器は十字架で打ち砕かれたのです。
新たに造られた憐れみの器にふさわしく生きるには、自己義認の生き方、自己栄化の生き方を否定して生きることです。
ミカ書6章8節には「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と言われています。
神の憐れみの器として生きることを要約すればミカ書の上記の言葉になるといえます。
私たちはともすれば神の憐れみ以外のいろいろなものを盛ることをします。それらのものに隠れて憐れみが見えなくなることもあります。
それにもかかわらず神は器を壊すことはなさらず、なおも憐れみを盛る器にふさわしく歩むことを忍耐強く望んでおられます。
それはキリストの十字架ゆえであります。十字架に現れた神の愛に応え、その愛に倣う生き方をしてまいりたいと思います。

2013年06月02日「キリストの力に頼る」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書11章14~23節

説教要旨:
イエスは今日の箇所で悪霊を追い出しています。他の箇所でも悪霊の追い出しをしており、このことからイエスの宣教において大事な一部をなしていたといえます。
では一体悪霊とは一体何なのでしょうか。悪霊の対極にあるのが聖書では聖霊です。
悪霊とは何かと問うとき、聖霊とは何かかが分かれば、答えは出てきます。
今日の聖書の箇所との関係においては、自由がキーポイントです。
聖霊の臨在するところ自由があります(第2コリント、3章17節)。言い換えれば、自由のないところには聖霊が臨在しないのです。悪霊は人間から自由を奪う働きをするのです。
たとえば、ナチス時代のドイツにおいて、人々の自由は奪われました。
悪霊に支配されたかのようにドイツ国民はヒットラーに酔い、自分で思考し、判断することを停止し、ナチスを支持し、その結果心の自由を失いました。秘密警察による監視体制のもと、人々から様々な自由が奪われたのです。
自由だけでなく、人間の尊厳も奪われました。ユダヤ人はじめマイノリティーの人権は全く無視されたのです。
イエスはそのような悪霊の支配から私たち人間を解放するために私たちのところへとやってこられたのです。
それだけがやってきた目的ではありませんが、宣教目的の一つです。
今日の箇所で「口の利けない人」が登場していますが、この人は何らかの病気で口が利けないということではなく、悪霊がこの人の口を開かせないように働いていたから口が利けなくなっていたのです。つまりこの人の自由を奪っていたのです。ではなぜ悪霊はそのようにさせていたのでしょうか。
悪霊は義なる者を不義なる者として告発する働きをします。その究極の例がイエス・キリストの告発です。
悪霊はファリサイ派や律法学者たちを通して、イエスを不義なる者として告発しました。
義なるイエスが不義なる者として告発を受けたのです。
口の利けない人も不義なる者として悪霊の告発を受けていたといえます。
告発に対して、申し開きが許可されるべきであるのに、悪霊はそのことを許さなかったのです。
イエスはその理不尽さを打ち破ります。悪霊をその人から追い出すのです。
口の利けない人は利けるようになり、自由の身とされたのです。人間としての尊厳も回復させられたのです。
そしてイエスは宣言されます。ここに神の国(神の支配)は来ていると。
イエスが説いた「神の国」とは、言い換えれば「自由の王国」であるともいえるのです。
イエスは「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書8章32節)といわれました。
真理とはイエス・キリストです。私たちは悪霊の支配の下ではなく、キリストの支配の下生きたい。
そこにこそ私たちの本当の自由があることを覚えたい。