2010年06月27 日「主イエスの死といけにえ」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マルコによる福音書10章32~34節
      ヨハネの手紙一、4章7~11節


説教要旨:
人間が住む社会には、いけにえという習俗があるといえます。
共同体の違いから、形式的には多様性がありますが、内容的には共通した同種のものが見られます。それは共同体が混乱し、統制がとれないとき、秩序を守るために、ある種の暴力をもっていけにえという行為が行われるという点において共通しているのです。
旧約聖書においてもヨナ書に出てくる預言者ヨナを荒れ狂う嵐の海に、嵐を鎮めるための
いけにえとして放り込むことなどにおいて見られます。
新約聖書においては、それはイエス・キリストの受難において見ることができます。
主イエスは当時のユダヤ教宗教社会から見て危険な人物と見られていました。
当時の宗教的権威を臆することなく批判していたからであります。当時の社会に支配的であった宗教的生活様式に異を唱えていたからであります。
宗教的社会を混乱に陥れる危険人物として排除されるべき対象となっていたのです。
そして人々はいけにえとして主イエスを十字架へと追いやるのであります。
しかし主イエスは、人々のいけにえにしようとする力に負けたのではなく、これまで伝統的に行われてきたいけにえに対して死を十字架で宣告されたのです。
もはやいけにえを必要としない社会の到来を宣言しているのです。
今日でも世界中において、いけにえの儀式は行われています。社会において異質と看做される人々が社会から排除されることが起こっています。十字架を無視した行為が行われています。いけにえにされるべきでない人たちがいけにえにされ犠牲になっています。
私たちキリスト者は、御国の到来を祈るとともに十字架ゆえにキリストと共にそのことに抗議すべきであるのです。

2010年06月20 日「託された使命」渡辺敏雄牧師

説教箇所:使徒言行録3章1~10節

説教要旨
聖霊を受けてイエスの弟子たちはこの世へと押し出されていきました。それは神の国の福音を宣べ伝えるためであります。
主イエスがそうであったように、彼らもまた福音宣教の第一線へと赴いたのであります。主イエスのなさんとされたことを彼らもまたなすためであります。
それには聖霊が必要でした。聖霊を受けることで主イエスの道を彼らも歩み始めたのであります。今日を生きる私たちもまた弟子たちと同じように主イエスの道を歩むことが求められています。
その道に癒しのわざを行うということもあるのです。今日の箇所では弟子たちは足の不自由な男を癒すということをしております。
主の道を歩みことでそこに主はかならず豊かに臨在されます。主が豊かに臨在するなら、そこに癒しのわざもまた起こるはずです。
主の道において、主イエスは聖霊において豊かに臨在し、豊かに癒しのみわざを現します。2000年前に起こった奇跡が見えるしるしとして今日でも必ず起こるとは限りません。
むしろ見えない形において起こることの方が多いのです。どのようにしてそれは起こるのか。それは関係性の中で起こります。
まず関わりをもつところから起こるのです。無関心のままでは何も起こりません。弟子たちと男はまず深い関係をもちます。表面的なうわべの関係ではありません。
施しを求めている男に対して、わずかばかりのお金を与えることで終わる関係ではありません。主イエスの御名を介しての関係です。主イエスが両者の間に豊かに臨在することで起こる関係です。主イエスの御手が両者を包むような中で起こる関係です。
そこに癒しのみわざが現れるのです。目に見えるような形での癒しではなくても、人の内面において変化を生むような癒しがそこに必ず起こることを覚えたい。

2010年06月06 日「イエスの癒し」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マルコによる福音書8章22~26節

説教要旨:
今日の箇所でひとりの盲人がイエスによって癒されています。福音書には多くの癒しの物語があります。ということは主イエスの「神の国」の宣教活動に「癒し」はなくてはならない不可欠なわざとしてあったということであります。しかし主イエスの癒しは現世ご利益を目的にしたものではなく、あくまで神の国の成就のためであります。
主イエスの癒しは精神の癒しというだけにとどまらず肉体の癒しも含まれています。人間のトータルな癒しであります。今日の箇所の盲人もまた単に肉眼で見えるようになったというだけではなく、霊的な目が開かれたことも私たちは覚える必要があります。なぜなら主イエスは2度にわたり癒そうとされておられるからであります。一回目において、盲人はまだはっきりと見えていません。人間が木のように歩いているのが見えると言っています。そして2回目においてはじめて、はっきりと見えるようになったと記されているのです。これはどういうことでしょうか。一回目のときはまだ主イエスの癒しのパワーが足りなかったということでしょうか。足りないから、はっきりと見ることができなかったのでしょうか。だからもう一回同じことをしたのでしょうか。そうではないでしょう。おそらく主イエスは最初のときは、盲人の背後から両手を目に置いたのではないのでしょうか。そのときははっきりと見ることができなかった。しかし2回目のときは、主イエスは盲人の前に立ち、両手を目に置いたのではないのでしょうか。するとはっきりと見えるようになったのではないのでしょうか。私たちは主イエスとの位置関係によって見える度合いが違ってくるのではないのでしょうか。すなわち、主イエスを背後に置くとき、私たちははっきりと物事を見ることができないのです。主イエスを前にするとき、すなわち主イエスと相向かい合う位置関係に立つときはじめてはっきりと見えるようになるのではないのでしょうか。それは肉眼でもって物が見えるというレベルにとどまらず、霊的に物事を見ることが
できるというレベルへと引きあげられることであります。霊的に物事を見ることができるとは、主イエスを前にして、主イエスを通して見るときに起こるのです。主イエスを通さずして見るとき、私たちはなかなか物事の真理をはっきりと見ることができないのです。私たちはたえず主イエスを前にして、主イエスの御声に忠実に従うときに私たちの真の癒しは起こるのです。