2010年06月06 日「イエスの癒し」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マルコによる福音書8章22~26節

説教要旨:
今日の箇所でひとりの盲人がイエスによって癒されています。福音書には多くの癒しの物語があります。ということは主イエスの「神の国」の宣教活動に「癒し」はなくてはならない不可欠なわざとしてあったということであります。しかし主イエスの癒しは現世ご利益を目的にしたものではなく、あくまで神の国の成就のためであります。
主イエスの癒しは精神の癒しというだけにとどまらず肉体の癒しも含まれています。人間のトータルな癒しであります。今日の箇所の盲人もまた単に肉眼で見えるようになったというだけではなく、霊的な目が開かれたことも私たちは覚える必要があります。なぜなら主イエスは2度にわたり癒そうとされておられるからであります。一回目において、盲人はまだはっきりと見えていません。人間が木のように歩いているのが見えると言っています。そして2回目においてはじめて、はっきりと見えるようになったと記されているのです。これはどういうことでしょうか。一回目のときはまだ主イエスの癒しのパワーが足りなかったということでしょうか。足りないから、はっきりと見ることができなかったのでしょうか。だからもう一回同じことをしたのでしょうか。そうではないでしょう。おそらく主イエスは最初のときは、盲人の背後から両手を目に置いたのではないのでしょうか。そのときははっきりと見ることができなかった。しかし2回目のときは、主イエスは盲人の前に立ち、両手を目に置いたのではないのでしょうか。するとはっきりと見えるようになったのではないのでしょうか。私たちは主イエスとの位置関係によって見える度合いが違ってくるのではないのでしょうか。すなわち、主イエスを背後に置くとき、私たちははっきりと物事を見ることができないのです。主イエスを前にするとき、すなわち主イエスと相向かい合う位置関係に立つときはじめてはっきりと見えるようになるのではないのでしょうか。それは肉眼でもって物が見えるというレベルにとどまらず、霊的に物事を見ることが
できるというレベルへと引きあげられることであります。霊的に物事を見ることができるとは、主イエスを前にして、主イエスを通して見るときに起こるのです。主イエスを通さずして見るとき、私たちはなかなか物事の真理をはっきりと見ることができないのです。私たちはたえず主イエスを前にして、主イエスの御声に忠実に従うときに私たちの真の癒しは起こるのです。