2009年1月25日「神の国と神の義」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書6章25節~34節
25、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思いなやむな。命は食べものより大切で あり、体は衣服よりも大切ではないか。
32、それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがもなあなたがたに必要なことをご存じである。
33、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
34、だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思う悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

説教要旨
イエスさまは「明日のことまで思い悩むな」と言われます。そのようにしたいと私たちは思いますが、現実には思い悩んでしまうのです。
イエスさまは思い悩むがことが悪いと言われているのではなく、思い悩むことを将来へとゆだねることができない私たちに神の恵みを与えるために「明日のこと まで思い悩むな」と言われているのです。

「明日のことまで」であり、今日を思い悩むことはある意味で大切なことであります。人間は将来に向けて計画を立てることができます。そのような賜物 を神は他の動物と違って私たち人間に与えてくださいました。その賜物を私たちは行使すべきであります。

将来に向けての計画で私たちは思い悩 みます。計画が御心に沿ったものであるかどうかの吟味がそこでは必要です。
余りに自我の追求のための計画であるなら、神は嘆き悲しむことでしょ う。

イエスさまは「まず神の国と神の義を求めよ」と言われています。神の国も神の義もともに他者と関わりをもつ言葉です。絶対他者なる神と、また隣人と ともに生きることで、神と隣人との正しい関係を持つことで神の国が神の義が現れてきます。そこでは自我の飽くなき追求は断念されぜるをえません。自己中心 的生き方は断念せざるをえません。

何を食べようか、何を着ようかと私たちの自我は際限なく思い悩みます。しかし神の国と神の義を求めるとき、将来に向けて他者とともに生きる計画をせ ざるをえません。自我の欲望を抑制せざるをえないのです。そのことで世界中で明日の命さえ脅かされている人々が、飢餓の中にいる人々が、生活が劣悪にある 人々が救われることが起こってくるのです。
しかし計画が将来実現するかどうかで私たちは思い悩まないでいいとイエスさまは言われているのです。

「明日のことは明日自らが思い悩む」とは、神ご自身が、私たちに代って明日のことを思い悩むということです。明日という日は神の御手の中にあり、私 たちが思い悩むものではなく、神にゆだねよということです。その日に労苦した思い悩み(将来に対しての計画)はその日だけで十分であるとの御声をしっかり と聴きたい。

2009年1月18日「見えるという罪」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書9章13~41節
24、さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度む呼び出して言った。 「神の前で正直に答えなさい、わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」
25、彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、 目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
33、あの方が神のもとから来られたのでなければ、なにもおできにならなかったはずです。

説教要旨
ヨハネによる福音書9章1節以下の箇所で、生まれつきの目の見えない人がイエスによって癒されるという 出来事が起こりました。しかしながらこの人はまだイエスを主(メシア)として見ていません。
預言者の一人として見ています(17節)。この人は肉体的には目は開かれたのですが、 まだ心の目は開かれていないのです。イエスを主として受け入れていないのです。

私たちが本当に目を開かれるのは、イエスを救い主として受け入れ信じることで始まるのです。
しかしファリサイ派の人たちは、「自分たちはすでに目が開かれている、だからすべて見えるのだ」と 自負していたのです。そんな彼らを主イエスは、実は見えていないと批判されます。

私たちもともすればファリサイ派の人たちと同じような過ちを犯します。 主イエスによって目が開かれているから、もう道案内人なしに自分で間違いなく歩いていけると自惚れ、 高慢になるときがあります。
私たちは主イエスによって救われてもなお目が見えていないのだということに気づく必要があります。
目が見えていないから、ただ主イエスによりすがり、行くべき道を導いてもらわなければならないのです。 主イエスが私たちの目となっていただかなくてはならないのです。主イエスによって目が開かれるとは、 主イエスの目によってすべて導かれることと言い換えることができるのです。

2009年1月11日「荒野のからの声」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:申命記3章23節~4章9節

説教要旨
今日の箇所はモーセが乳と蜜の流れる約束の地カナンを目の前にして、
いよいよ約束の地へと入るイスラエルの民に、これからどのように生きていったらいいのかを 語り聞かせる箇所です。
モーセも民と一緒に約束の地に入ることを願っていたのですが、主の御心はそうではなく、 モーセは入ることなく死を迎えねばなりませんでした。

そういう意味でいわゆる遺言的な意味をもっています。
もし神から授かった戒めを忠実に守っていくなら、神の民として祝福を受けるが、 そうでないと滅びが待っているとモーセは民に告げるのです。

民はたえずこの荒野からのモーセを通しての神の声を聞く必要がありました。 しかし民はそれができず滅びへと向かうことになります。
民は約束の地に入り、さらに王国を作りあげ、ソロモン王の時代に物資的な繁栄の頂点を迎えます。 しかしその頂点においてすでにモーセの10戒に違反する罪を犯していたのです。 以後の王国時代の大半は神の御心から離れての歩みとなりました。そこでかずかずの預言者たちが起こされ、たえず神に立ち帰ることが告げられましたが、それ もできず最終的に国は滅びました。モーセの無念さは幾ばかりであったことでしょう。 私たちもともすれば物質的な繁栄の中にあって荒野からの声を忘れ、神の御心から離れることがあります。 荒野の厳しい声よりも豊穣を説く声に誘われがちになります。 しかし荒野からの声こそが繁栄の中にあるときこそ聴くべき声であるのです。

2009年1月4日「シメオンの本望」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書2章25節~38節
25、そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまってい た。
26、そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
28、シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。
30、わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

説教要旨
今日の箇所でシメオンという人が登場してきます。このシメオンは幼子イエス様に出会います。彼はただちに幼子がメシアであることに気づきます。
ど うしてメシアであると分かったのでしょうか。それは聖霊によってです。

私たちも聖霊によらなければナザレのイエスがメシアであるとは認めることができないのです。事実ファリサイ派や律法学者たちは世間から見れば立派な 信仰者でした。しかしナザレのイエスにメシアを見ることはできなかったのです。 シメオンは主イエスと出会い、感謝と讃美を献げます。29節「主よ、 今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と歌います。 それまでシメオンは聖霊を通して「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」(26節)とのお告げを受けていました。今やそのお告げが実現します。シ メオンは死を覚悟しつつも、それを超えていくほどの喜びをもって讃美を献げたのです。メシアに出会えたことで、もうこの世に未練はない、もう死んでもいい との思いを抱いたのであります。それほどにメシアに出会うということは人生にとって大きな出来事であります。 死をも乗り越えさす力をもつものであるのです。なぜならメシアは永遠の命をもたらす御方としても来られているからであります。