2009年1月18日「見えるという罪」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書9章13~41節
24、さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度む呼び出して言った。 「神の前で正直に答えなさい、わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」
25、彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、 目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
33、あの方が神のもとから来られたのでなければ、なにもおできにならなかったはずです。

説教要旨
ヨハネによる福音書9章1節以下の箇所で、生まれつきの目の見えない人がイエスによって癒されるという 出来事が起こりました。しかしながらこの人はまだイエスを主(メシア)として見ていません。
預言者の一人として見ています(17節)。この人は肉体的には目は開かれたのですが、 まだ心の目は開かれていないのです。イエスを主として受け入れていないのです。

私たちが本当に目を開かれるのは、イエスを救い主として受け入れ信じることで始まるのです。
しかしファリサイ派の人たちは、「自分たちはすでに目が開かれている、だからすべて見えるのだ」と 自負していたのです。そんな彼らを主イエスは、実は見えていないと批判されます。

私たちもともすればファリサイ派の人たちと同じような過ちを犯します。 主イエスによって目が開かれているから、もう道案内人なしに自分で間違いなく歩いていけると自惚れ、 高慢になるときがあります。
私たちは主イエスによって救われてもなお目が見えていないのだということに気づく必要があります。
目が見えていないから、ただ主イエスによりすがり、行くべき道を導いてもらわなければならないのです。 主イエスが私たちの目となっていただかなくてはならないのです。主イエスによって目が開かれるとは、 主イエスの目によってすべて導かれることと言い換えることができるのです。