2012年05月27日「世にも不思議な出来事」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録2章1~13節

説教要旨:
今日の箇所はとても不思議な出来事が記されています。
ひとりの人だけが他国の言葉を話したのではなく、集まっていた人全部が他国の言葉で話し出したのです。
そして意志の疎通ができたのです。
ある一つの言語で皆が意志の疎通を図ったというのではないのです。
たとえば今日英語が世界の共通語のような位置にありますが、ペンテコステにおいて、英語という一つの言語が排他的に用いられたというのではなく、いろいろな国の言葉で話されたのです。
それも生まれてから一度も学んだこともなければ、聞いたことのない言葉で話したのです。
またその場に居合わせた人は、当時の時代においては世界中と言っていいほどの広がりでもってエルサレムに集ってきた人々でありました。
ここには示唆に富むことが描かれています。
まず私たちは世界の国の人々が一つの言語でもって話し合うことができたらいいのにと思いますが、たとえばエスペラント語などによって話し合えたらいいのにと思いますが、神の御心はそうではなく、あくまで多言語で聖霊によって意志の疎通を図るということであります。
そこには神は私たちの世界が多様性をもったものであることを望んでおられることが分かります。
一つの言語に統一されることを望んでおられるのではないということです。
また世界中の民がエルサレムという一箇所に集うているということで、聖霊によって民族の壁、言語の壁を乗り越えて世界の民が一つとなることを求めておられることも分かります。
今日の世界には民族の違いによる対立や戦争があります。民族の違いには言語の違いも付随します。
その違いゆえに民は苦しんでいます。
では神の御心は世界の民が一つの民族、一つの言語になることであるのでしょうか。
違います。世界の民は、民族の多様性をもちつつ、聖霊による一致を神から求められているのです。
教会がペンテコステの出来事にその誕生の由来をもつとするなら、教会は単色の世界ではなく、多様性に富みつつも、分裂、対立に陥ることなく、聖霊による一致を祈り求める群れでありたい。

2012年05月20日「弁護者としての聖霊」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書16章1~15節

説教要旨:
今日の箇所で主イエスは、ご自身の死を予告されます。
それを聞いた弟子たちは当然悲しむことになります。
でも主はすぐあとに弁護者を送ることを語られ、弟子たちを慰めます。弁護者とは聖霊のことです。
この弁護者としての聖霊は、やがて福音伝道活動において迫害を受ける弟子たちにとって、彼らを支え、力づけるものとして機能することになります。
弟子たちはそのことがまだ理解できていません。彼らは十字架すらましてや復活さえも分からない状態であります。
そんな弟子たちでありますが、のちに復活のキリストとの出会い、そして聖霊の満たし受けたとき(ペンテコステ)に、初めてかつてイエスが言われたことが真理であったと悟ることになるのです。
聖霊は真理を悟らすだけでなく、真理を語らせる働きもします。
事実弟子たちはペンテコステ以後迫害をも恐れずにキリストの福音の真理を大胆に語るようになります。
それも聖霊の働きであります。そのことで多くの教会がまたクリスチャンが生まれたのです。
その歴史の中に私たちの教会もあります。
説教者は礼拝で御言葉を語ります。それは聖霊の働きによるものです。
また説教者が語った御言葉を会衆に悟らせるのもまた聖霊の働きであります。
ですから私たちは聖霊の満たしを共に祈り求めるのです。
聖霊なくして福音の真理を語ることも悟ることも本来できないのです。
そして迫害などの困難な状況の中にあっても、福音を語らせるのは一重に聖霊によらなければできないことなのです。弁護者としての聖霊に満たされて福音を時が良くても悪くても語る者でありたい。

2012年05月13日「苦しみを共にされる神」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:出エジプト記3章7~10節

説教要旨:
今日の箇所は聖書の神とはどのような神であるかを語っている箇所であります。
多くの人は思います。神は全能であるから、苦しむはずがない、痛むはずがないと。
しかし聖書の神はそうではありません。7節には「彼らの叫びの声を聞き、その痛みを知った」と記されている通り、痛み、苦しみを知る御方であります。この「知る」と訳されている言葉は単に頭で知るというだけではないのです。体全体でもって知ったという意味です。
神は、エジプトの地で奴隷として苦しんでいるイスラエルの民の肉体的な痛みを感覚をもって知ったのです。
そのことは、神は私たちの苦しみ、痛みを共に痛み、苦しむ御方であることを告げているのです。
そのことが御子イエス・キリストの十字架において目に見える形で如実に現われたのです。十字架で神は文字通り肉体をもって痛み、苦しまれたのです。ですから私たちが痛み、苦しむとき、神はまことに近くにおられるのです。いや近くというよりも、私たちの肉体の痛みと苦しみに共に与っていると言っていいのです。私たちの苦しみの叫びを聞き、共に与っている神を歌で表現するのがゴスペルの心であるのです。

2012年05月06日「主イエスを心に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書15章10~20節

説教要旨:
今日の聖書の箇所でイエスはファリサイ派の人たちを批判しています。
彼らの信仰を問題にされています。
イエスは「口から入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである」(11節)と言っています。ここでイエスは律法の中にある食物規定を問題しています。ファリサイ派の食物規定を一字一句そのまま守ろうとする堅くなさに対して、異議を唱えています。
そんな食物規定を厳格に守るよりも、あなたたちの心の中にあるものが口から出てくることで人を汚すのだということに思いを致せと言うのです。
このイエスの言葉にファリサイ派の人たちはつまずいたと言われています。
彼らが大事だと思っていた律法厳守が批判され、彼らの心が問題にされているからであります。
口から出てくるものとは具体的には言葉であり、行為であります。その言葉や行為の背景にあるのは私たちの心です。私たちの心が濁っていれば、良い言葉や良い行いは出てきません。
心が澄んでいれば、良い言葉や良い行いが出てきます。
イエスはファリサイ派に対して、あなたたちの心は濁っているにもかかわらず、自分たちはそうではない清いのだと驕り高ぶっているから、駄目だのだと批判しているのです。
彼らの清さの基準は律法をどれだけ厳格に守っているかどうかという点にあります。
それに対してイエスはそんなのは神の清さではない、神の清さは心にあるといわれているのです。
私たちの心は誰でも罪で濁っています。清いものなど誰一人いません。
では私たちが清さを得るにはどうしたらいいのでしょうか。私たちは自らの力で清くなることができるのでしょうか。できません。濁った水が自らの力で澄んだ水になることができないのと同じように、私たちの濁った心を自分の力で透き通ったものにすることはできないのです。
私たちの心は神によってしか清くなれないのです。
私たちの心に主イエスを迎え入れることでしか私たちは清くなることはできないのです。