2011年09月25日「主の言葉の力」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録19章8~20節

説教要旨:
パウロのエフェソ伝道が始まりました。この福音宣教においてキリスト教に入信する人もおり、また非難する人もいました。このように福音の真理に対して、大まかに二つの反応が起こりますが、そのほかにも、信じてはいないが、主の御名を商売に利用する人がいます。
それが13節で登場するユダヤ人の祈祷師たちでありました。
パウロが行った奇跡を自分たちも行わんとして主の御名を唱える者もいたのです。
彼らは主イエスを信じてはいません。にもかかわらず主の御名を唱えれば奇跡が起こると思ったのです。奇跡を起こし、その見返りとして報酬を目当てにしたのです。
でも主の御名を心から信じていませんから、奇跡など起こるはずなどなく、逆に悪霊に襲いかかられてしまうはめになったのです。
そのことで主の御名が崇められるようになったのです。そして多くの人が罪を悔い改め、信仰に入ったのです。
神のなさることは不思議です。確かにユダヤ人の祈祷師たちによって主の御名が汚されたのですが、そのままで終わるのではなく、多くの人から主の御名が崇められることが起こったのです。
ここに万事相働いて益となす神の御業を見ることができます。
さらに魔術師はその類の書物を焼き捨てることが起こります。主の御名が崇められるところに、魔術、呪術の類は退かざるをえません。
そして「主の御言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」(20節)のです。

2011年09月18日「イエスはどこから来たのか」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書7章25~44節

説教要旨:
キリストがどこから来たのかを知ることはイエスがメシアであることを知ることでもあります。
ファリサイ派の人々はイエスの肉的な出身地は知っていました。それはベツレヘムややガリラヤでありました。
でも本当のイエスの出身地を知ることができなかったのです。
イエスは神から来ていること、そして人々を救うために来ていることを知ることはなかったのです。
神から来ていることを知らないから、メシアとしてイエスを認めることができず、またどこへということも分からなかったのです。
私たちは「どこから」と「どこへ」という問いの間に生きているといえます。
その問いは私たちのアイデンティティーにかかわることだからです。
「どこから」は母の胎からとか生まれた場所や以前に住んでいた土地を答えることでしょう。
しかし「どこへ」となるそうはいきません。究極の「どこへ」は死の時にやってきます。
元気で生きているときは、「どこへ」という問いに答えることができる場合がありますが、死のときには、明確に答えることができるでしょうか。
明確に答えることができる場合は、イエスを神から来たメシアであることを知り、受け入れるときです。
神の御子イエス・キリストは私たちの救いのために十字架で死んで、3日目によみがえりたもうた。そして40日間弟子たちの前に現れ、そして父なる神のもとへと昇られた。何のためか。私たちのために天に永遠の住まいを用意するためであります。
ですから死んだ後に私たちはどこへ行くのかとの問いはイエス・キリストにおいて明らかにされているのです。
イエスをただの人間として見ているかぎり、メシアとして信じられないなら、死後「どこへ」という問いは、宙に浮いた状態になってしまうのです。イエスをメシアとして信じるとき、私たちの「どこから=神から」も「どこへ」という問いも真に解決するのです。

2011年09月11日「信仰の転換」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録17章16節~34節

説教要旨:
パウロが生きた当時のアテネは偶像の神々に満ちていました。
それは今日の日本の姿でもあります。どうしてこうも多くの神々が生まれるのでしょうか。
それは人間を中心にして考えていくとそうなるのです。私たちは自分にとって都合のいいものを欲しがります。しかしそれを手に入れることが自分の力ではできないとき、他力本願になります。
その他力本願も人間の力では、無理となりますと、人間を超えた神を求めることになるのです。
そして様々な願望と欲望を満たすために、そまざまな求めに応じた神々が造られていくのです。
それらの神々は実は人間の願望が投影されたものであり、神への信仰というよりも、自分への信仰でしかないのです。自分が神になっていると言ってもよいものであります。
聖書の神はそうではなく、人間がいなくても存在する神です。人間が神によって造られるはるか前から存在する神です。その神によって私たちは皆知られているのです。
私たちが神を知る前から神は私たちを知っているのです。
この信仰は信仰におけるコペルニクス的転換を意味します。地球(自分)が中心であり、その周りを太陽(神)が回っていると考えから、太陽(神)の周りを地球(自分)が回っているのだと知るような事柄であるのです。
神が主体であり、人間は客体であります。私たちは神によって自分は一体どういう者であるかをはじめて知るのです。
聖書で悔い改めとは方向転換することです。いままでの神が客体で、自分が主体であるとの生き方から方向転換して神が主体であり、自分は客体であることを知り、また神が絶対であり、自分という存在はこの地上では相対的な存在であることを認め、その神の前に忠実な僕として謙虚に生きることが求められているのです。

2011年09月04日「神の風呂敷」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録10章1~33節

説教要旨:
今日の箇所でローマの百人隊長コルネリウスが登場してきます。
その彼の家にキリストの福音が届けられます。
そこに至るプロセスが面白い。まずコルネリウスに神は幻を見せます。
ペトロのところに行って、自分の家に来るように言えというものです。
最初は何のことだろうと思ったことでしょう。
会ったこともない見ず知らずの人を自分の家に招けといわれると私たちは躊躇することでしょう。はっきりと意味が示されているならまだしもですが。コルネリウスは神の言葉に困惑しつつも従います。
神はコルネリウスにまず幻を通してペトロとの出会いを用意すると同時にペトロにもコルネリウスとの出会いを幻において用意します。
それは天空が開き、大きな布のような入れ物が下りて来るというものです。
そのいわゆる風呂敷の中にはあらゆる動物が入っていたのです。
その中には律法では穢れた動物と言われる動物も入っていました。
不思議な幻です。ペトロはその意味するところが分かりません。
神はコルネリウスの場合にもペトロの場合にも、最初から言わんとする意味を告知していません。でも最終的に二人はその意味を知ることになるのです。
このように神は最初からその出会いの意味を示さないということがあります。
でも神が出会わしめたもう出会いであれば、必ずその意味が最終的には分かるときが来ます。私たちはそのときを諦めずに辛抱強く待つことが必要です。
ではコルネリウスとペトロとの出会いの意味するところは、一体何でありましょうか。
それは神において民族の垣根はないのだと言う事です。もっと言えば神においては救いはすべての人に向けられているのだということです。清い民とか穢れた民という区別はないということです。
当時はユダヤ人と異邦人(穢れた民とユダヤ人から見なされていた)は基本的には交際していませんでした。
垣根が両者の間にはあったのです。それが二人の出会いにおいて現実に取り除かれたのです。
天空からの大きな布(風呂敷)は実は神の救いの布を意味していたのであります。