2011年07月31日「神の業?」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コヘレトの言葉8章16節~9章3節

説教要旨:
コヘレトは神のすべての業を観察しました。
なぜならこの世の出来事すべてに神は関わりたもうているとコヘレトは考えていたからです。
この出来事には神のどんな業が働いているのか、どんな意味があるのかと寝ずに考えたのです。
でも結局分からなかった。コヘレトはその労苦に疲れ果ててしまったのです。
そしてその疲れを癒すために、快楽的な生き方へと向かったのです。
でも彼は神を捨てたわけではありません。彼は神なしの人生など考えていません。
ただ神の義に対して懐疑的です。
そのことが9章1~3節で言われています。コヘレトの懐疑の背景には応報思想の崩壊があります。
善人には神の祝福があり、悪人には神の裁きがある。
善は必ず勝利し、悪は滅びる。このような応報思想の下、人生において善を行いつつ生きることが大事である、なぜなら神はその人に良い報いを与えるに違いないとの思いがコヘレトにあっては崩壊しています。
神の業を見極めるための労苦の結果、神の業を応報思想で片付ることができないことが分かったのです。
そのことは明確に主イエスの十字架において示されています。
罪なき御子イエス・キリストが十字架で処刑される。まことに不条理であります。応報思想は完全に崩壊しています。代わりに十字架で示されるのは、神の愛であります。十字架における神の義は神の愛であります。
悪人をも救わんとする神の愛です。
たとえ人の心は悪に満ち、思いは狂っていても、なお神は見捨てず救おうとするのです。

2011年07月23日「人より神に従う」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録5章12~32節

説教要旨:
今日の箇所で使徒たちによるしるしと不思議な業が行われたことが記されています。
そしてここでも「心をひとつにして」いたのです。心がバラバラではしるしと不思議な業は行われません。
また多くの人々がキリストを信じることとなりました。
そのことで大祭司やサドカイ派の人々はねたみを使徒たちに覚えたのです。
前回の逮捕のときは、使徒たちの復活信仰が問題となりましたが、今回は教義上の問題ではなく、単なるねたみという感情レベルのことで逮捕されるに至ったのです。
まったく権力の乱用であります。権力者はどんな理不尽な理由であれ、自分たちにとって不都合な者を閉じ込めようとします。自由を奪おうとします。
しかし神はそれを許さず、使徒たちを天使を通して、牢から解放するのです。
キリストの福音を、また伝道者をいかなる権力者も閉じ込めることはできません。
使徒たちを通して、福音は宣教されねばならないのです。
使徒たちは福音を神殿の境内で語り告げます。そのことに権力者は戸惑い、恐れ、再び使徒たちを逮捕し、最高法院で彼らを尋問し始まるのです。「キリストの福音を語ってはならない」と最初の逮捕で、自分たちが釈放されるときに、大祭司たちから言い渡されたにもかかわらず、
使徒たちは神殿で福音を大胆に語ったのです。
それは人に従うよりも神に従うことを優先させた結果であります。
このようにして福音は伝達されていきます。人に従うことで福音は伝達されません。
神に従うことで福音は伝達され、福音を信じる者が起こされていくのです。

2011年07月17日「前へ向かわしめるもの」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:詩編143編

説教要旨:
143編で、詩人は命の危機に陥っています。危機の中にあって深い淵から救いを求めています。彼は敵から攻撃を受け、裁判に引き出され、死刑の判決を受ける可能性があります。彼は決して自分には罪はないとは思っていません。犯した罪の自覚があります。
その犯した罪が過去において与えられた神の恵みを台無しにするほどのものとして今臨んでいます。
そのような状況下で、詩人は過去の神の恵みに思いをめぐらします。そのことで自らを慰めようとしています。
と同時に彼は今一度神が大いなる恵みを賜り、自分を救ってくれるようにと祈っています。危機の中にあってなお神へと向かっています。
命の危機の中で、意気消沈し、起き上がれないほどでありますが、そこにあってもなお神への信仰を捨てては、いないのです。前向きに神へと祈るのです。
犯した過去の罪が私たちを前へと向かわしめないで足を引っ張ることがあります。前に進もうにも、過去が足にからみつき、前へと足を進めることをできなくさせていることが多々あるのです。
そのような過去から私たちを解き放つものは一体何なのでしょうか。
私たちはそのような場合、どこに逃れていったらいいのでしょうか。
それはイエス・キリストの十字架です。過去の罪の重荷を十字架で降ろすのです。
詩人は危機からの脱出を敵がすべて絶やされることで果たそうと神に祈っています(12節)。
確かに敵が絶やされるなら、詩人は命の危機から救われるでしょう。でも過去の犯した罪はそのまま残ります。
罪の贖いとゆるしが彼にはなお必要なのです。そのことが主イエス・キリストの十字架において起こるのです。
十字架のもと荷を降ろし、身軽くなって、前へと向かうのです。

2011年07月10日「皆一つになって」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録2章42節~47節

説教要旨:
今日の箇所は初代教会が大切にしていた事柄が記されています。
使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることです。
それらの事柄を守るいっぽう、不思議な業としるしが伴っていました。
不思議な業としるし、これは奇跡と言い換えてもいいでしょう。イエスが行った奇跡が弟子たちにおいても行われたのです。
そしてその奇跡の中に、44節「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」ことも含めていいのではないかと思います。
今日の世界においてこのようなことはありません。共産圏の国でもありません。
まさに奇跡的な出来事であります。
でもこの出来事は長く続くことはありませんでした。
長く続くことがなかった理由として終末の遅延があります。
キリストの再臨が明日にでもあるとなると、私たちは物欲から解き放たれます。
物を所有することから自由になれます。
でも終末、キリストの再臨がなかなかやってこないとなると、だんだん明日の生活のことを思い煩うようになります。明日の生活のことを考える、物の所有というエゴが芽生えてきます。そこには人間の深い罪があります。
今日を生きる私たちには終末の切迫感はありません。ですから明日のことを思い煩ってしまうのです。とてもすべての物を共有することなどできません。
ですから初代キリスト教会の姿とは違っています。罪ある人間において、すべての物を共有することは至難の業であります。至難の業でありますが、できるだけ相互扶助の信仰を強められたいと思います。互いに愛し合うということの中に、それは含まれています。
けれども私たちは、物の共有というしるしに無理やり、いやいや集中するよりも、他にしるしを見るべきではないのでしょうか。
46節のことです。皆心を一つにして礼拝を献げ、神を賛美すること、ここに大きな不思議な業としるしを見ることができるのではないでしょうか。
私たちの群れには、年齢も違い、性差もあり、職業の違い、生まれ育った背景の違い、人種や民族の違い、階層の違い、趣味嗜好の違い、など様々な相違があります。
多様な人々が集うています。この世的には到底一つになることができないような集団です。
そのような群れが今朝一つとなって、心を一つにして神に礼拝を献げていることこそが、大きな業としるしとして私たちは見ることができるのではないのでしょうか。

2011年07月03日「キリストを模範に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ペトロの手紙一、2章18~25節

説教要旨:
18節で、無慈悲な主人にも心からおそれ敬って従いなさい、と勧められています。
さらに「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」とも言われいます。
なかなか素直に聞き入れることのできない言葉です。
どうしてこのような言葉が発せられるのでしょうか。一つには終末、キリストの再臨の切迫があります。無慈悲な主人から受けた不当な苦しみに抗議するよりも、迫り来るキリストの再臨に備えるがことが何よりも大切であることが背景にあります。しかしそれだけではありません。キリストの足跡に続くことがキリスト者にとって重要であるとの理由です。キリストも不当な苦しみを十字架で受けました。
また私たちも不当な苦しみを無慈悲な主人から受けることがあります。
でも十字架で不当な苦しみを受けられたイエス・キリストが私たちが受けた不当な苦しみを負ってくださいます。キリストの苦しみによってしか私たちは受けた苦しみの傷は癒されることはないのです。
無慈悲な主人に恨みをいだき、憎悪し、さらには殺害したとしても、そのことで怨念は晴らせたとしても、受けた傷は癒されることはないのです。
私たちが人を憎悪するとき、神から離れてしまっています。さまよえる羊であります。
そのとき、私たちは十字架へと帰るべきであります。十字架を仰ぐとき、私たちの憎悪の罪、殺意の罪は贖われるのです。そしてキリストの足跡に続く者として再び歩み始めるのです。