2011年07月10日「皆一つになって」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録2章42節~47節

説教要旨:
今日の箇所は初代教会が大切にしていた事柄が記されています。
使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることです。
それらの事柄を守るいっぽう、不思議な業としるしが伴っていました。
不思議な業としるし、これは奇跡と言い換えてもいいでしょう。イエスが行った奇跡が弟子たちにおいても行われたのです。
そしてその奇跡の中に、44節「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」ことも含めていいのではないかと思います。
今日の世界においてこのようなことはありません。共産圏の国でもありません。
まさに奇跡的な出来事であります。
でもこの出来事は長く続くことはありませんでした。
長く続くことがなかった理由として終末の遅延があります。
キリストの再臨が明日にでもあるとなると、私たちは物欲から解き放たれます。
物を所有することから自由になれます。
でも終末、キリストの再臨がなかなかやってこないとなると、だんだん明日の生活のことを思い煩うようになります。明日の生活のことを考える、物の所有というエゴが芽生えてきます。そこには人間の深い罪があります。
今日を生きる私たちには終末の切迫感はありません。ですから明日のことを思い煩ってしまうのです。とてもすべての物を共有することなどできません。
ですから初代キリスト教会の姿とは違っています。罪ある人間において、すべての物を共有することは至難の業であります。至難の業でありますが、できるだけ相互扶助の信仰を強められたいと思います。互いに愛し合うということの中に、それは含まれています。
けれども私たちは、物の共有というしるしに無理やり、いやいや集中するよりも、他にしるしを見るべきではないのでしょうか。
46節のことです。皆心を一つにして礼拝を献げ、神を賛美すること、ここに大きな不思議な業としるしを見ることができるのではないでしょうか。
私たちの群れには、年齢も違い、性差もあり、職業の違い、生まれ育った背景の違い、人種や民族の違い、階層の違い、趣味嗜好の違い、など様々な相違があります。
多様な人々が集うています。この世的には到底一つになることができないような集団です。
そのような群れが今朝一つとなって、心を一つにして神に礼拝を献げていることこそが、大きな業としるしとして私たちは見ることができるのではないのでしょうか。