2010年11月21日「ぶどうの木に繋がる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書15章1~10節

説教要旨:
今日の箇所ではイエス・キリストにつながることで豊かに実を結ぶことが言われています。
どのような実を結ぶのでありましょうか。それはひとつには、聖霊の実であります。
パウロがガラテヤの信徒への手紙5章22節、23節で言っている「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」などの実が聖霊を通してキリストによって結ばれていきます。
ただそれだけではなく、伝道の実も結ばれることが言われているのです。
その伝道の実が結ばれるためには、またキリストにつながることが必須のこととなるのです。
キリストにつながらなくては、私たちは何もできないのです。
キリストにつながることで私たちにはキリストの愛が注ぎ込まれていきます。キリストの愛とは要するに十字架の愛であります。
十字架の愛なしでは豊かに実は結ばれることはないのです。主イエスは「わたしの愛にとどまりなさい」と言われています。
わたしの愛とは十字架の愛です。神と敵対して歩んでいた私たちをもなお愛し、十字架で罪ある者のために罪を代わって負われ、贖なわれた愛にとどまるのです。それは山上の説教で説かれた「敵を愛しなさい」、「迫害する者のために祈りなさい」という主の掟、主の御言葉を守ることです。
この御言葉なしには、豊かに実を結ぶことはないことを覚えたい。

2010年11月14日「永遠の命を得る」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書3章16~21節

説教要旨:
「神は独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(16節)といわれています。
神が愛であることの証明的な出来事として、御子イエス・キリストの十字架があります。
愛には犠牲が伴います。どれほどの愛であるかはその犠牲を見れば分かるものです。
神は独り子を十字架に渡すほどに私たちを愛されたのであります。
かけがえのない独り子です。二人といない子供です。その独り子を単に私たち人間に養子に出したという程度ではないのです。十字架の死をもってしてまで私たちを救おうとされたのです。神と御子イエス・キリストとは一体です。御子の十字架での苦しみは神の苦しみであります。十字架での悲しみ、嘆きは神の悲しみ、嘆きであります。
そのことは私たちと同じような苦しみ、悲しみ、嘆きを味われて、私たちと共にあることで愛を示されたのです。それほどに私たちに身近に肉体でもって愛を示されたのです。
また罪なき御子が十字架で苦しみ、死なねばならないということは、まことに不条理であります。
しかしその不条理を敢えて引き受け、神自らが世の人から攻撃されることを厭わずに、
十字架に御子を渡すことで、私たちを救おうとされたのです。そのように世を愛されたのです。
この世は神に反抗的であります。神の御心に従うこと少ないものであります。罪深い世であります。そのような世の行きつく末は滅びであります。
神はそのことに耐え難く、なんとしてでも救おうとされ、その代価を御子の十字架で支払われたのであります。そのことにより永遠の命の道が切り開かれたのです。
「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」であったのです。
御子イエス・キリストを信じ、受け取るとき、私たちはキリストの光の中を歩き始めます。
そしてその光に導かれてたどり着くくゴールは神の永遠の御国であるのです。

2010年11月07日「本国は天国にあり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章12~4章1節

説教要旨:
「わたしたちの本国は天にあります」と言われていますが、天とは神さまのおられるところであり、神の御心が100パーセントなっているところであります。そして御子イエス・キリストがおられるところであり、そこに私たちは属しているということであります。私たちの最終的な帰属はキリストにあるのです。
ですからこの地上に生きる私たちは、キリストの支配のもとにあると言ってもいいのです。パウロは「自分がキリストによって捕えられている」(12節)と言っています。このことはキリストの支配のもとにあるだけでなく、キリストによって支えられ、守られて生活をしていることを意味します。
キリストの支配は目に見えぬ形で聖霊を通して行われていきます。
聖霊が私たちに注がれる形で神の御心はこの地上で行われていきます。
私たちは「主の祈り」において「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。
祈るとき聖霊が注がれ、この地に御心がなるように私たちは神によって用いられていきます。
私たちの本国は天にあるからといって、この地のことがどうでもいいのではありません。
御心がこの地でもなることは神の喜ばれることであります。
また一方で、私たちは、本国が天にあることで、この地上のものを相対化する自由を得ます。絶対化からの自由を得ます。
相対的なこの世のことに余りにも固執してしまう、あるいは余りにも心を奪われてしまいますと、本国が天ではなくなってしまいます。
それは、この世に宝を積むことになります。
また一方この地上のものに無関心でありますと、これも本国が天でない状態になっていくのです。私たちは本国から派遣されている
キリストの使者であります。御心が地でも貫徹されるために使者として用いられていくのです。天に宝を積む生き方こそが私たちの生き方であるべきです。
天から派遣された者はまた天へと帰る者でもあります。本国へと帰るのです。そのときはいつか。それはキリストの再臨のときであります。
御国の成就のときであります。それまで私たちはまず神の国と神の義を求め、天に宝を積む歩みをするのです。