2010年11月07日「本国は天国にあり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章12~4章1節

説教要旨:
「わたしたちの本国は天にあります」と言われていますが、天とは神さまのおられるところであり、神の御心が100パーセントなっているところであります。そして御子イエス・キリストがおられるところであり、そこに私たちは属しているということであります。私たちの最終的な帰属はキリストにあるのです。
ですからこの地上に生きる私たちは、キリストの支配のもとにあると言ってもいいのです。パウロは「自分がキリストによって捕えられている」(12節)と言っています。このことはキリストの支配のもとにあるだけでなく、キリストによって支えられ、守られて生活をしていることを意味します。
キリストの支配は目に見えぬ形で聖霊を通して行われていきます。
聖霊が私たちに注がれる形で神の御心はこの地上で行われていきます。
私たちは「主の祈り」において「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。
祈るとき聖霊が注がれ、この地に御心がなるように私たちは神によって用いられていきます。
私たちの本国は天にあるからといって、この地のことがどうでもいいのではありません。
御心がこの地でもなることは神の喜ばれることであります。
また一方で、私たちは、本国が天にあることで、この地上のものを相対化する自由を得ます。絶対化からの自由を得ます。
相対的なこの世のことに余りにも固執してしまう、あるいは余りにも心を奪われてしまいますと、本国が天ではなくなってしまいます。
それは、この世に宝を積むことになります。
また一方この地上のものに無関心でありますと、これも本国が天でない状態になっていくのです。私たちは本国から派遣されている
キリストの使者であります。御心が地でも貫徹されるために使者として用いられていくのです。天に宝を積む生き方こそが私たちの生き方であるべきです。
天から派遣された者はまた天へと帰る者でもあります。本国へと帰るのです。そのときはいつか。それはキリストの再臨のときであります。
御国の成就のときであります。それまで私たちはまず神の国と神の義を求め、天に宝を積む歩みをするのです。